◆新潟の発展に尽くした佐野藤三郎
▽佐野藤三郎の主な経歴
大正12
中蒲原郡石山村(現在の新潟市東区)中木戸で誕生
昭和30(32歳)
亀田郷土地改良区の理事長に就任。現在価格で約144億円に上る土地改良区の借金返済に奔走
昭和39(40歳)
新潟地震が発生。被災した農地の復興や、新たな排水機場の整備促進に力を注ぐ(昭和43年に親松排水機場が完成)
昭和50(51歳)
農村と都市部が共存した地域の発展に向けて、財団法人亀田郷地域センターを設立。理事長に就任
昭和51(52歳)
第一次亀田郷農民友好訪中団を組織し、団長として中国を訪問
昭和53(54歳)
第二次亀田郷訪中団の団長として北京を訪問。中国から「三江平原農業開発計画」への協力要請を受け、同計画を日本の国際協力事業とするよう奔走(平成14年に竜頭橋ダムが完成。三江平原の食料生産量は3・3倍へと増加)
昭和60(62歳)
日本海圏経済研究会を設立。ロシアや中国との国際交流促進のため、国際シンポジウムなどを積極的に開催
平成元(65歳)
「未来農業を考える会」を主宰。新潟の農業の将来に向けた、さまざまな構想・計画を立案
平成4(68歳)
第10回アジア・アフリカ賞受賞
平成6(70歳)
農林水産大臣賞(ダイヤモンド賞)を受賞。同日夜、くも膜下出血で倒れ、翌日逝去。正六位勲四等瑞宝章を受章
▽佐野さんのことをよく知る人物に話を聞きました。
亀田郷土地改良区 前理事長 杉本 克己さん
-行動力があって気さくな人
佐野さんは32歳で亀田郷土地改良区の理事長に就任してから、類まれな行動力で地域をまとめ、時には国にも直接働きかけ、さまざまな事業を進めてきました。
理事長に就任してからの最初の仕事は、現在価格で約144億円にも上る借金の返済。佐野さんが大蔵省(現在の財務省)にいきなり支援を求めに行ったにもかかわらず、大蔵省の官僚はその真剣さに心を打たれ、力になってくれたそうです。その後、大蔵省で新しく農林担当になった官僚が佐野さんを訪れ、農家の現状を学び、夜は酒を酌み交わす「佐野学校」ができたというエピソードは、佐野さんの親しみやすい人柄をよく表していると思います。
私が佐野さんと出会ったのは23歳の時。第一次亀田郷農民友好訪中団として、当時52歳の佐野さんたちと中国へ行き、そこから親交を深めました。佐野さんは30歳も年が離れている私と「友だち」のように接してくれる気さくな人でした。
-意思が引き継がれ新潟が発展することを願う
かつて、亀田郷は「芦沼」と呼ばれる泥深い田んぼが一面に広がり、農民たちは腰まで水に漬かりながら、大変な思いで稲作をするのが当たり前でした。その後、栗ノ木排水機場ができて、さらに佐野さんの尽力もあって親松排水機場が稼働すると、乾田化が進み、農業の生産性が向上しました。佐野さんの「自分の思いを実現させる行動力」のおかげで、今の田園風景があると思っています。また、都市化が進む現状を直視しながら、当時から「都市と農業の調和」に取り組まれた先見性と視野の広さには脱帽です。新しいことに積極的にチャレンジする姿を、私は見習ってきました。
佐野さんの行動力の源は、「農民だけでなく故郷新潟のあらゆる人々が幸せになれるように」という思いだったのだと感じています。佐野さんの意思が次の世代に引き継がれ、亀田郷、そして新潟がさらに発展することを願っています。
○亀田郷の歴史を学んだ小学生の声
両川小学校(江南区) 小野 櫻子さん
昨年、授業で昔の亀田郷のことについて学びました。排水機場ができる前は、胸くらいの高さまで水が増えることがあり、当時の農作業は想像できないほど大変だったと知りました。また、自分の家のある場所が、昔は水に漬かっていたと知ってびっくりしました。
今では家の近くに公園があって暮らしやすいこの地域が好きです。大人になっても、この地域で暮らしていきたいです。
○佐野藤三郎の人生をマンガで楽しく読んでみよう
佐野さんの一生を描いたマンガを、市内の図書館で貸し出しています。
『まんが にいがた偉人伝 佐野藤三郎』
企画・監修:(公財)食の新潟国際賞財団
シナリオ:小林 裕和
マンガ作画:シャガラ
市内図書館所蔵数:21冊
問い合わせ:ほんぽーと中央図書館
(【電話】025-246-7700)
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問い合わせ:秘書課
(【電話】025-226-2045)
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