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チョッと知っ得 区内の文化財 蘭学事始地(らんがくことはじめち)

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東京都中央区

■蘭学事始地(らんがくことはじめち)
都指定文化財 旧跡
明石町11番先

現在の明石町地区には、江戸時代前期から中期(元禄赤穂事件)まで播磨国赤穂藩(はりまのくにあこうはん)の藩邸(上屋敷)が置かれていました。東京都では赤穂事件ゆかりの文化財「浅野内匠頭(たくみのかみ)邸跡」として、旧屋敷地(現在の明石町10・11および1番街区の南半分)を旧跡指定しています(令和6年6月21日号で紹介)。
なお、赤穂事件が発生する前の天和元年(1681)の時点で、築地鉄砲洲にあった浅野家の広大な上屋敷は概ね東半分(現在の明石町5・9・12番)が収公され、当該地は譜代大名・奥平家(拝領時は出羽国(でわのくに)山形藩、数度の移封(いほう)後に享保2年〈1717〉から豊前国中津藩(ぶぜんのくになかつはん)の中屋敷と松平家一門の旗本・榊原家(交代寄合表御礼衆(こうたいよりあいおもておんれいしゅう[譜代(ふだい)大名の嫡子(ちゃくし)に准ずる待遇]と称された旗本の一家)の拝領屋敷地として幕末まで続きました。
前者の豊前国(現在の大分県)中津藩奥平家といえば、蘭学に傾注した人物(いわゆる「蘭癖(らんぺき)大名」と称された)の一人として、第5代藩主・奥平昌高(まさたか)(1781~1855)がよく知られています。また、第3代藩主・奥平昌鹿(まさか)(1744~1780)の藩政では、中津藩医・蘭学者であった前野良沢(りょうたく)(1723~1803)のオランダ語研究を庇護し、良沢を中心にオランダ語版の人体の解剖書『Ontleedkundige Tafelen』(原書『Anatomische Tabellen』はドイツ人医師クルムス著、オランダ人医師ディクテンがオランダ語訳し1734年にアムステルダムで出版)の翻訳という歴史的な業績があったことも知られています。なお、数年に及ぶこの事業が奥平家中屋敷(現在の明石町9番の概ね西半分および12番)内で行われた史実を踏まえ、当地は東京都の旧跡指定(文化財名称「蘭学事始地」)を受け、隣地には記念碑が建立されています。
後に「蘭化(らんけ)」と自号(藩主昌鹿が「蘭学の化け物」と称したことにちなむ)するほどオランダ語研究に情熱を注いだ中津藩医の前野良沢は、47歳の時に日本橋生まれの蘭学者・儒学者である青木昆陽(こんよう)(1698~1769)に師事してオランダ語を学びました。明和7年(1770)には、藩主昌鹿に随行して国元(くにもと)(中津)へ下向(げこう)した際に長崎遊学の厚遇を受け、長崎で吉雄耕牛(よしおこうぎゅう)(1724~1800)をはじめとする阿蘭陀通詞(おらんだつうじ)からオランダ語を習得し、後に訳述に挑む『Ontleedkundige Tafelen(日本の通称:ターヘル・アナトミア)』などの蘭書を入手して江戸に戻りました。
そして、明和8年の3月に町奉行所から小塚原の仕置場で人体の腑分(ふわけ)(解剖)を行う知らせを受けた若狭国(わかさのくに)(現在の福井県)小浜(おばま)藩医・杉田玄白(げんぱく)(1733~1817)が、本石町三丁目の長崎屋でオランダ商館長から蘭訳の解剖書を入手した同藩医・中川淳庵(じゅんな(あ)ん)(1739~1786)と、既に同書を有していた中津藩医・前野良沢を参観に誘い、奉行所の許可のもとで実際の腑分けと解剖図との実見比較を仕置場で行い、同図の正確さに驚嘆したといわれています。この出来事を契機に、翌日から中津藩邸内の良沢宿所に同志(杉田玄白・中川淳庵・桂川甫周(かつらがわほしゅう)・石川玄常(いしかわげんじょう)[途中から参加]ら数名)が参集し、オランダ語版の解剖書から人体の内部構造を解き明かすべく同書の訳述に取り組みました。作業に当たっては、オランダ語に対する一定の知識があった良沢を翻訳主幹とし、困難を極めた人体器官と訳述の対応のみならず、同志の語学習得の教授をも同時に行いました。約3年に及ぶ苦心の末の成果は、安永3年(1774)に地本問屋・須原屋市兵衛から全5巻の『解体新書』(訳述は正文(せいぶん)のみ、付図は解剖書などからの模刻〈秋田藩士・小田野直武画〉)として刊行されています。
なお、同書刊行に至るまでの経緯や翻訳の苦心談などは、現場に身を置いた杉田玄白による晩年の回顧録(『蘭学事始』)からも読み取ることができます。

中央区教育委員会
学芸員 増山一成

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