戦後78年が経過し、平和な日常が当たり前のようになりつつあります。そうした中、戦争の悲惨さや平和の尊さについて学び、周りの人に伝えたいと考えて集まった青少年を平和使節団として沖縄・鹿児島、広島、長崎の各都市へ派遣しました。
今号では平和使節団員が現地で体験してきた活動の一部をご紹介します。
■沖縄・鹿児島班
派遣期間:7月24日~27日
訪問先・活動内容:
・富屋食堂
・知覧特攻平和会館
・対馬丸記念館
・戦争体験講話
・嘉数高台
・糸数の壕(アブチラガマ)
・ひめゆりの塔
・平和の礎
・沖縄県平和祈念資料館
・沖縄市平和大使・糸満市平和ガイドとの平和交流会
・沖縄市戦後文化資料展示館 他
◆ピックアップスポット
◇知覧特攻平和会館―特攻の悲惨さを後世に伝える―
昭和16(1941)年、鹿児島県知覧町(現在の南九州市)に大刀洗陸軍飛行学校知覧文教所が開港、少年飛行兵、学徒出陣の特別操縦見習士官らが操縦訓練を重ねていました。戦況が緊迫し、昭和20(1945)年、本土最南端の陸軍特攻基地となり、20歳前後の若い隊員たちが満州・日本内地から集結。家族・国の将来を思いながら出撃していきました。
知覧特攻平和会館は、第二次世界大戦末期の沖縄戦で、爆装した飛行機もろとも敵艦に体当たりする「特攻」という人類史上類のない作戦に従事した陸軍特別攻撃隊員の遺品や関係資料を展示しています。
◇糸数の壕(アブチラガマ)―沖縄戦時の避難壕―
アブチラガマは、沖縄本島南部の南城市玉城字糸数にある全長270mの自然洞窟(ガマ)です。沖縄戦時、糸数住民の避難指定場所でしたが、日本軍の地下陣地・倉庫としても使用され、戦場が南下するにつれて南風原陸軍病院の分室となりました。
昭和20(1945)年5月1日から軍医・看護婦・ひめゆり学徒が配属。約600名の負傷兵が運び込まれ、5月25日の南部への搬退命令により、重症患者が置き去りにされました。米軍の攻撃に遭いながらも奇跡的に生き残った負傷兵と住民は、米軍の投降勧告に従って8月22日にガマを出ました。
▽栗城さん
戦時中の人々が実際に暮らしていた糸数の壕を訪れ、寒くて、暗くて、足場も悪くて、当時の人はどれほどの恐ろしさだったのかと想像し、戦争の悲惨さを感じました。
▽金成さん
平和の礎(いしじ)にズラリと亡くなった人の名前が刻まれているのを見て、戦争による犠牲の大きさを実感し圧倒されました。
■広島班
派遣期間:8月5日~7日
訪問先・活動内容:
・ヒロシマ青少年平和の集い(被爆体験講話、ディスカッション)
・平和記念式典
・原爆死没者追悼平和祈念館
・平和記念公園(原爆供養塔、平和の鐘、原爆ドームなど)
・広島平和記念資料館
・大和ミュージアム 他
◆ピックアップスポット
◇平和記念式典―世界恒久平和の祈りをささげる―
広島県広島市に原爆が投下された8月6日に、広島市内の平和記念公園で行われる世界の恒久平和を祈念する式典です。公園内に建立されている原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)前で、原爆死没者の遺族をはじめ、市民など多くが参列して挙行されます。
当日は、広島市長による「平和宣言」や市内の子どもたちの「平和への誓い」があり、原爆犠牲者の方々に思いを馳せ、平和への祈りを捧げました。
78回目の原爆の日となった令和5年の式典には、過去最多の111か国の代表が集まり、式典後には多くの参列者が公園中央の慰霊碑に献花のため長蛇の列をなしていました。
◇原爆ドーム―被爆した当時の姿で核兵器の惨禍(さんか)を伝える―
チェコ人の建築家ヤン・レツルの設計により大正4(1915)年4月に広島県物産陳列館として完工し、特徴ある緑色のドームによって市民に親しまれていました。県物産の展示・卸売、商工業に関する調査・相談などのほか、美術展や博覧会など文化事業にも利用されました。
その後、戦争の長期化・激化とともに内務省中国四国土木出張所、広島県地方木材(株)などの事務所として使用されました。
昭和20(1945)年8月6日午前8時15分、米軍のB29爆撃機が人類史上初めて原子爆弾を投下しました。原爆は、この館の南東約160mの上空約600mでさく裂し、館内にいた全員が即死。建物は大破・全焼しましたが、爆風がほとんど垂直に働いたため建物の壁の一部は倒壊を免れ、最上部に円蓋の鉄骨が残りました。戦後、その形から、いつしか原爆ドームと呼ばれるようになりました。
▽藤田さん
原爆に本気で向き合って、本気で伝え、本気で訴えているさまざまな思いを持った人たちに出会い、絶対に原爆を許してはいけないと強く感じました。
▽荒生さん
戦争や原爆などの争いはあってはならないという気持ちは持っていたけど、実際に行ったり、聞いたりすることで、平和への想いがよりいっそう深まりました。
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