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【特集】山王祭~2200日ぶりの神幸祭(じんこうさい)~(1)

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6月7日(金)に、山王祭の最大の盛儀である「神幸祭」が6年ぶりに斎行します。総勢500人が国会議事堂や東京駅など都心を丸一日かけて巡行する様子は2年に一度しか見ることができません。
今号では、その始まりと千代田区指定文化財とのつながりをご紹介します。

■今号は付録もあります!
神幸祭巡幸路や主な例祭・奉祝行事を掲載しています

■江戸三大祭 山王祭の歴史
山王祭は、日枝神社で開催される祭典です。神田明神の神田祭、富岡八幡宮の深川八幡祭とともに江戸三大祭の一つとされています。
日枝神社は、鎌倉時代に守護神として秩父重継(ちちぶしげつぐ)が山王宮を祀(まつ)ったことを起源とし、江戸城を築城した太田道灌(おおたどうかん)が文明10(1478)年に川越日枝神社を勧請(かんじょう)(※1)したことに始まります。その後、江戸城の鎮守(ちんじゅ)(※2)であった日枝神社は徳川将軍家の産土神(うぶすながみ)(※3)と考えられるようになり、山王祭の祭礼に保護が加えられるようになりました。徳川実紀(じっき)によると寛永12(1635)年、3代将軍家光が江戸城天守閣の櫓(やぐら)の上から神幸行列をご覧になったと記されています。江戸城内で将軍の上覧があった事から天下祭(てんかまつり)と称されるようになりました。
祭礼行列が練り歩く「神幸祭」は山王祭最大の盛儀(せいぎ)(※4)で、本祭の時に斎行されてきました。江戸時代の行列は、神輿(みこし)行列と山車(だし)(※5)行列で構成され、山車行列は氏子の町々(百六十余町)単独または類で45組が組織されました。50本ほどの山車に各町会が趣向を凝らした附祭(つけまつり)(※6)である踊り屋台や練り物が加わりとても華やかな行列だったようです。明治時代になると電線など交通の事情により山車や錦旗(きんき)の通行が難しくなり、神輿を担いで巡行するようになります。
山王祭は、天保の改革や江戸幕府の滅亡、さらに東京大空襲によって神社が焼失したことで祭礼の中断などさまざまな困難に見舞われました。しかし、昭和27(1952)年6月から再開され、現在に至るまで江戸時代からの伝統が守られ続けています。
現在は御鳳輦(ごほうれん)二基、宮神輿一基、山車六基をはじめ、王朝装束に身を包んだ氏子など総勢500人、300mにもおよぶ隊列が都心を練り歩きます。まるで江戸時代にタイムスリップしたかのような姿に圧倒されます。

(※1)神や仏の霊を他の地に移してまつること
(※2)国・村・城・寺院など、一定の地域や造営物を守護するために祭られた神
(※3)生まれた土地を守護する神
(※4)華やかで立派な儀式
(※5)祭礼時に引いたり担いだりする出し物で、花や人形などの装飾が施されている
(※6)山車のほかに余興として引くもの

■麹町五丁目町会 町会長・副町会長さんに聞きました!
・町会長の湯田嘉彦(ゆだよしひこ)さん
・副町会長の片岡勝吾(かたおかしょうご)さん

◇6年ぶりの神幸祭ですね。
湯田:前回の祭りの経験者が少なく、開催するのも一苦労です。祭りの一部が失われてしまうのではという危惧はありますが、今年はしっかり開催して、待っている皆さんに応えたいです。

片岡:祭礼に必要な人や物を集めるのが大変です。コロナ禍で人々のつながりが失われた影響が大きいですね。町会員の減少や高齢化により、単独の町会で祭礼を開催するのは難しく、私たちは麹西連(麹町西部町会連合)として麹町4〜6丁目、紀尾井町で連合となり、8日(土)の連合宮入前と9日(日)に町内渡御(とぎょ)を予定しています。6年ぶりの開催で準備は大変ですが、当日を楽しみにしています。

◇御神酒所(おみきしょ)で使用されてきた掛軸が区の指定文化財となりました。
湯田:代々の町会長宅で大切に保管してきましたが、価値があるものなら適切に保管や修復をしてほしいという思いから寄贈を決めました。掛軸自身も喜んでいるかなと思います。

片岡:実はこの掛軸が指定文化財となるまで、私たちはみんな本物だとは思っていなかったので、本当に驚きました。祭りで使用されてきたことが、重要なポイントだそうです。

湯田:寄贈するにあたって、デジタルスキャンし、本物さながらの、いえ、むしろ本物よりきれいかもしれないレプリカを作りました。今後は、御神酒所の掛軸として使用します。雨の多い祭礼にも安心して臨めます。

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