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(シリーズ)くにたちの遺跡と発掘調査を紹介します!【第4回】

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東京都国立市

■古墳とは?
今回は国立市にある「古墳」をご紹介します。一般的に古墳とは、3世紀から7世紀頃(古墳・飛鳥時代)に土を盛り上げて造られた墳墓(ふんぼ)で、内部に埋葬(まいそう)施設があり、墳丘(ふんきゅう)上には古墳時代に特徴的な土器である埴輪(はにわ)が並んで立てられました。その規模や形状は様々ですが、特に有名なのは大阪府堺市にある前方後円墳の仁徳(にんとく)天皇陵古墳(大仙陵(だいせんりょう)古墳)で、古墳といえばまずこの形が想起されます。しかし、日本で一番多い形は平面の形が円く、平坦な墳頂(ふんちょう)を持つ円墳で、くにたちで発見された古墳も形が分かるものは全て円墳です。
このような大きなお墓を造るには、大規模な土木工事が必要です。また、副葬品(ふくそうひん)には鏡や武器、玉類などの装飾品がみられ、被葬者は富や権力を持つ人物であると考えられます。古墳の分布をみると、弥生時代の終わり、3世紀頃には、日本列島西部を中心とする各地に、死後も影響力を示すように古墳を造った支配者が存在していたことがわかります。
最近の話題としては、奈良市にある富雄丸山(とみおまるやま)古墳(4世紀後半に築造された日本最大規模の円墳)から出土した、日本最大の鉄剣(長さ約237cm)が、同じく前例のない「盾」の形をした鏡(だ龍文(りゅうもん)盾形銅鏡)と一緒に発見されたことがあげられます。この鉄剣は、最古の蛇行剣(だこうけん)(剣身が蛇が蛇行しているような形状を持つ)とみられます。日本ではこれまで多くの古墳が調査されてきましたが、このような予期しない遺物の出土によって、新たな歴史の扉が開いていくことに、心を動かされます。
※「だ龍文」の「だ」は環境依存文字のため、かなに置き換えています。正式表記は本紙をご覧ください。

■くにたちの古墳
国立市には、市南東部の立川段丘縁辺部に下谷保古墳群として12基、市南西部の青柳段丘縁辺部に青柳古墳群として14基(青柳無名墳含む)、その間に南養寺古墳、神明塚古墳、石塚が点在しています。いずれも古墳時代後期、6世紀から7世紀頃の築造と位置づけられます。このうち、現存しているのは下谷保1号・2号墳、谷保古墳、石塚です。また、青柳古墳群で発見された四軒在家1号~11号古墳のうち、1号墳は遺跡内の四軒在家(しけんざけ)公園内に移築・保存されています。
古墳時代中期頃までは一部の支配者によって大規模な古墳が造られましたが、後期には小規模な円墳が密集して造られるようになります。国立市の青柳・下谷保古墳群も群集墳であり、地域の有力者やその関係者が埋葬されたと考えられます。
古墳時代後期から終末期には、青柳古墳群の東側に下谷保古墳群、その東には府中市御嶽塚古墳群がありました。さらにその北側には大型の上円下方墳(じょうえんかほうふん)「武蔵府中熊野神社古墳」があり、これは全国的に希少であるため首長墓と考えられています。
下谷保古墳群の埋葬施設に注目すると、河原石を積んだ石室が主体ですが、平成23年の発掘調査で発見された下谷保10号墳が唯一、切石を積み上げて造られています。これは多摩川上中流域の首長墓にみられる特徴とされますが、これらより規模は小さくなります。
古墳を調査していくと、被葬者の性別や年齢、葬制以外に、当時の支配者・権力者の影響力や関係性がうかがえます。くにたちの古墳を理解するためには、周辺地域はもとより、日本列島全体での政治的・社会的な動向と合わせて考える必要があります。また、日本列島には未発見・未調査の古墳が多数存在しており、これからも新たな発見が続くことを期待できます。皆さんにもくにたちの身近な古墳で当時を想像し、興味を持ってもらえたら嬉しいです。

次回はくにたちに関わりの深い考古学者を紹介します。

・下谷保10号墳 石室(切石を使用)
切石を用いた石室は多摩川上中流域で6例目であり、非常に貴重な発見です!
※詳しくは本紙をご覧ください

問合せ:生涯学習課社会教育・文化芸術係

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