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(シリーズ)くにたちの遺跡と発掘調査を紹介します!【第5回】

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東京都国立市

■国立(くにたち)に住んだ考古学者
今回は、考古学者として戦前は縄文土器の編年(へんねん)研究を進め、戦後は国立市に住んで、多摩地域の文化財に関する様々な活動を行った甲野勇(こうのいさむ)を紹介します。
甲野は、眼科医院であった自宅に併設された薬草園の管理のために同居していた大叔父の部屋で黒曜(こくよう)石の石器に触れたことがきっかけとなり、人間の歴史に関心を持つようになりました。中学生になると考古学に興味を持ち、一人で発掘に行って遺跡の報告書を書いています。
大正11(1922)年に東京帝国大学(現在の東京大学)理学部人類学科に進学し、考古学のほかに、民族学や人類学の知識を得て、民族誌(特定の民族集団をとりまく世界、文化や社会、環境などの具体的な記述)に興味を持つようになりました。

■縄文土器の研究
当時、縄文土器にはさまざまな種類(形や文様)があるということは分かっていました。しかしその違いの要因が、各地域の生活様式の差によるものか、層位学的・型式学的※にみた場合の時期差なのかは明らかになっていませんでした。甲野は同じく東大人類学教室で学び、後に縄文土器の編年研究で名を馳せた山内清男(やまのうちすがお)、大学教授を歴任し、考古学の発展に寄与した八幡一郎(やわたいちろう)と共にこの謎に挑みます。そして発掘調査と実証的な研究方法を基とした関東の縄文土器の編年(同じ特徴を持つ土器をまとめ、新旧を整理して並べた年表)を発表しました。この発掘後、3人はそれぞれのフィールドで縄文土器の編年研究を進めていきます。
甲野は、昭和28(1953)年に刊行された『縄文土器のはなし』の中で、縄文土器研究の本来の目的は、土器それぞれの特徴や変化を通じて、その背後にある当時の生活や社会、文化を知ることであり、編年的研究は目的にいたる過程の一つに過ぎないと記しています。その言葉のとおり、甲野の研究は環状列石(ストーンサークル)や土偶・土面(粘土製の仮面)・土版(板状の土製品)、装身具から身体装飾などにおよび、モノから縄文時代の人々の精神性を復元しようと試みました。

■国立(くにたち)での活動
戦後、甲野は杉並区から国立市に転居し、多摩地域を中心に遺跡の調査や保存に尽力しました。特に次代を担う子どもたちのために、科学的・実証的な歴史復元や正しい歴史教育が必要であるとし、博物館の設立や中学・高校生を対象に発掘調査の指導を行っています。
そこで、中学生による発掘調査の是非が問われると、当時、高度経済成長に伴う大規模な開発によって、未調査の遺跡が破壊される現状があったことから、次のように答えています。「中学生の発掘が未熟であっても、学ぶ意欲を認め、正しく導くのが教育であり、埋蔵文化財がその価値を発揮するためには、教育と結びつく必要がある。なぜなら、これらが歴史的にどのような価値を持つものか、なぜそれを保護するのかという理由を、広く社会に知らせる必要があり、その価値を議論することで、それらが『われわれの文化財』となりうるからである。」
国立市内の南養寺遺跡から出土した「トッテー」として知られている顔面把手付土器は、昭和34(1959)年、甲野の指導のもと、国立町教育研究会社会科部が中心となり、国立第一中学校の生徒らが参加して行われた発掘調査で出土したものです。皆さんもぜひ、くにたち郷土文化館に展示されているトッテーに会いに行ってみてください。

※型式学的方法:遺物の特徴によって分類して変化の様子をとらえ、年代の変遷や地域間の検討によって時間・空間・型式間での関係性を明らかにする研究方法。
層位学的方法:遺物が出土した土層(原則として下は古く上は新しい)の新旧関係をとらえ、時代のものさしとする研究方法。

・くにたち郷土文化館収蔵資料データベース
(「甲野勇氏資料」のデジタル化を進めています!)

問合せ:生涯学習課社会教育・文化芸術係

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