■那須町と近現代の人々 vol.26
2月号は、教育者として国内・満州で活躍した秋山真造を紹介します。
真造は、明治17年に芦野宿で、秋山兵次・ヒサの子として生まれました。明治30年、芦野尋常高等小学校を卒業後、同校での代用教員を経て、栃木師範学校・東京高等師範学校で学び教員の道へ進みました。学生時代はテニスに没頭し、同校のエースとして活躍し、名を轟かせました。
卒業後は明治43年から山梨師範学校(現山梨大学学芸学部)教諭、大正2年から東京府女子師範学校兼東京府立第二高等女学校(現東京学芸大学・都立竹早高校)教諭に着任し、教員養成・女子教育にあたりました。このときの教え子に政治家・山高しげり、声楽家・関鑑子(せきあきこ)がいます。大正5年からは京都帝国大学で教育学を小西重直(後に第9代京都帝国大学総長)に学び、小西の斡旋で大正8年から南満州鉄道株式会社(満鉄)に入社しました。
真造は入社後、教育研究所・地方部学務課に勤務し、満鉄附属地(満鉄は所有地で行政権も行使していた)における学校施設の経営や同地での教員採用、植民地における教育政策の研究と実施を担当しました。このとき真造は、満州の学校教育に映画を初めて取り入れたといわれています。昭和12年からは在満州国大使館に移り、在満学校組合連合会主事として満州国内の中等教育の学校施設経営等にあたるなど、満州国における教育行政の中枢を担いました。
昭和21年の引揚後は大田原町に移り、翌年以降同町の農地委員会書記、栃木県民生委員、同胞援護会理事などを歴任しました。
昭和26年からは、十文字学園(東京都)の秋葉馬治に乞われ、同校教諭として67歳から教壇に現場復帰しました。十文字学園では、中学校・高校の社会科等の先生として昭和40年に81歳になるまで奉職し、テニス部顧問などを務めるなど老齢ながらも生徒たちと向き合いました。
真造は現在、菩提寺である大田原市の光真寺に眠り、那須地区の教育を見守っています。
問合せ:那須歴史探訪館
【電話】74-7007
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