■那須町と近現代の人々 vol.29
5月号は、南画家として活躍し、伊王野とゆかりのある関谷雲崖を紹介します。
雲崖は、明治13年に河原村富貴田(現大田原市)の関谷平左衛門・ステの長男として生まれ、登一郎と名付けられました。雲崖の親類には、広報那須769号で紹介した芸術家・関谷富貴がいます(息子・関谷陽(たかし)の妻)。
雲崖は、両郷小学校、伊王野尋常高等小学校高等科を卒業し、家業である農業を継ぎました。雲崖は幼少より画才に恵まれていたといいます。明治38年からは両郷村役場に勤務し、同40年に両郷村収入役を勤めています。
明治33年、雲崖は画家の寒川雲晃(うんちょう)に出逢い、画業への思いが再燃すると、大正元年に単身上京し、南画家・小室翠雲に師事し画業を学びました。
雲崖は、大正4年に開催された第9回文展で「渓山新緑図」が初入選したことを皮切りに、文展、帝展で何度も作品が入選しています。また、大正5年には南画会出品作品が宮内省御用品となりました。このような活躍もあり、大正15年には、前貴族院議員・植竹三右衛門、前両郷村長・大平初太郎ら有志により、雲崖後援会が組織されました。
昭和4年になると雲崖は、小堀鞆音(ともと)・小杉放庵・荒井寛方など東京で活躍していた栃木県ゆかりの日本画家らで、華厳社を立ち上げています。また同年に、日本南画院院友となるなど、雲崖は日本を代表する南画家の1人として活躍しました。
昭和17年、アジア・太平洋戦争のため郷里である富貴田に疎開し戻ると、昭和43年に89歳で亡くなるまで郷里で過ごしました。その間、地域住民に対し絵画を指導したり、絵行脚にいそしんだといいます。
5月19日より開催されるトピック展「那須ゆかりの美」後期展示では、雲崖が昭和29年に美野沢小学校校舎新築の際に寄贈した「萬峰帰一」を公開します。この機会に旧伊王野小の先輩でもある彼の作品をご鑑賞ください。
※肖像写真は、『黒羽町誌』より引用しました。(本紙参照)
問合せ:那須歴史探訪館
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