■那須町と近現代の人々 vol.31
7月号は、那須温泉の発展に寄与した小松屋旅館の箭内(やない)源太郎を紹介します。
箭内源太郎は、安政5年に箭内源右衛門の子として誕生しました。箭内家は代々、那須湯本で小松屋を営んでおり、源太郎も明治から昭和にかけて旅館を経営しました。なお、源太郎の息子・箭内源典(げんてん)は、源太郎が57歳の時に誕生した子供で、日本ビューホテルの創業者として有名です。
源太郎は、小松屋を経営する中で、那須温泉街への観光客誘致を積極的に行いました。明治29年に『いてゆの栞一名那須各湯案内』、大正8年に『那須温泉勝景』という現在の観光マップ、旅行案内書を刊行し、他にも絵葉書などを作成することで、那須温泉への観光客誘致を図りました。また、未成線で終わるも黒田原‐新那須間に敷設が予定されていた那須電気鉄道への出資や小松屋自動車の設立による乗合自動車の運行など、那須温泉に来る観光客の交通事情改善にも力をいれました。
また源太郎は、那須湯本の名士として旅館業以外にも、さまざまな仕事を兼務しました。明治11年には、湯本七等郵便取扱所(現那須温泉郵便局)の初代所長として50年以上那須温泉街の郵便事業に携わり、昭和11年からは息子・源典が局長を引き継いでいます。明治40年からは1期、栃木県会議員を務め、現在の那須街道の県道化を成しとげました。
実業家・政治家として地域に携わるだけでなく、源太郎は地域の災害記憶の継承にも励みました。安政5年に発生し、那須温泉街を壊滅させた山津波を後世に伝えようと、罹災50年後の明治40年に「追悼之碑」を有志と共に建立し、追悼祭を実施しました。その85年後の平成6年には「追悼之碑」が現代語訳された石碑が新たに設置されるなど、湯本の災害を未来に伝えようとした源太郎の想いが今なお結実しています。
近代の那須湯本の発展に貢献した箭内源太郎。彼ならどのようにこれからの那須町の未来を描くのでしょうか。
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