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那須の歴史再発見!

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栃木県那須町

■那須町と近現代の人々 vol.33
8月号は、那須で「草羊園」を営み、日本の緬羊界発展に貢献した、谷邨(たにむら)一佐(いっさ)を紹介します。
谷邨一佐は、慶応2年に長州藩士の子として生まれました。谷邨家の両隣は吉田松陰・林友幸の屋敷だったといいます。明治2年、両親に伴われ上京し、東京府第二中学校に入学すると同級生に山田美妙、二年下級に尾崎紅葉がいました。明治19年に渡米し、同21年にエール大学で法律・経済・生物学などを学び同24年に帰国しました。
明治42年、農商務省より「畜産経済調査」の嘱託を受け再び渡米すると、かねてより興味を抱いていた緬羊や牧草栽培についてコーネル大学で学び大正元年に帰国しました。大正4年に陸軍第一師団経理部嘱託技師として習志野演習場(千葉県)などで牧草栽培に取り組んでいましたが、同6年に那須村松子の那須街道西側の高久御料地(約200ha)を借り受け「那須草羊圃(谷村牧場)」を開き、洋風牧舎を構え、牧羊・牧草を試みました。牧場の開設には、矢板武、植竹三四郎(西那須野・黒磯・黒田原で運送店を経営)、浅川敏靖(陸軍中将)、道家斉(農商務省官僚)などが後見・顧問を務めたといいます。
当時北那須地区では、豊浦農場(毛利牧場)や千本松農場(松方農場)でさかんに緬羊飼育が行われており、大正8年には松方正義が「草羊圃」を訪れ、羊の毛刈りを見学しています。谷邨が那須で事業を始めたこともあり、那須郡役所からは奨励金が交付されたり、黒磯町や近隣村を中心に那須緬羊協会が発足するなど、北那須地域での緬羊飼育事業が拡大していきました。大正9年時点で谷邨の牧場には、約100頭の緬羊、各10頭ほどの馬や乳牛がいたといいます。
谷邨の那須での足跡は、現在は見る影もなくなっています。松子地区には、谷邨が大正時代に建てた「羊塚碑」があると言われています。谷邨に関する資料や言い伝え、「羊塚碑」の場所などを知っている方がいらっしゃいましたらご連絡ください。
(写真は『とようら地区の歴史』、谷村一佐『奎普龍将軍』国立国会著勘デジタルコレクションより転載)
※写真は本紙またはPDF版に掲載されています。

問合せ:那須歴史探訪館
【電話】74-7007

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