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自治体の皆さまへ

すべての人を大切にするまちに~ハンセン病問題から学ぶ~

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滋賀県草津市

令和2(2020)年から拡大した新型コロナウイルス感染症も、昨年5月に五類に移行し、現在は、ようやく日常生活へ戻りつつあります。しかし、流行当初は、未知のウイルスへの不安により、患者やその家族だけでなく、治療にあたる医療従事者も差別や偏見による被害を受けました。同じように社会問題となったものに、ハンセン病問題があります。

■ハンセン病とは
ハンセン病は、細菌によって起こる感染症で、かつては「らい病」と呼ばれていました。現在は、細菌を発見した医師の名前から「ハンセン病」と名称が改められました。
ハンセン病は、発病すると、手足などの神経が麻痺し汗が出なくなる、「痛い」「熱い」「冷たい」といった感覚がなくなる、体の一部が変形してしまうといった症状が現れます。治療法がない時代は、障害などの後遺症が残ることもありました。

■ハンセン病は治る病気です
昔は、有効な治療薬がなかったため、ハンセン病は「不治の病」と考えられていましたが、実際には感染力が非常に弱く、昭和18(1943)年に治療薬として「プロミン」(注射液)の有効性が確認されました。その後、さまざまな薬が開発され、現在はいくつかの飲み薬を組み合わせて服用する治療が行われ、適切な治療を受ければ確実に治る病気となっています。

■患者や家族が受けた苦しみ
明治40(1907)年「癩(らい)予防ニ関スル件」という法律が制定され、野外生活を営むハンセン病患者を療養所に入所させました。
昭和6(1931)年には新たに「癩(らい)予防法」が成立し、在宅患者を含めた全ての患者の強制的な隔離が進められてきました。
療養所では、退所も外出も許可されず、作業を強いられたり、裁判を経ない収監罰を与えられたり、結婚の条件に断種や堕胎を強いられたりするなどの人権侵害がありました。
また、患者本人だけでなく、その家族も周囲から厳しい差別を受けました。当時、患者の強制的な入所や住んでいた家の消毒などが行われたことで、周囲の人々は恐怖心を植えつけられ、患者とその家族への差別意識を生んだと考えられています。家族は近所付き合いから疎外され、結婚や就職を拒まれたり、引っ越しを余儀なくされたりすることもありました。学校ではいじめに遭い、進学の希望も叶わず、身元調査をされて就職を拒否される例もあったといいます。
このような過酷な偏見や差別の中で、家族の中には、患者本人を恨んだり、やむなく縁を切らざるを得なかったりした人もいました。
昭和22(1947)年から、日本でもプロミンの使用が始まり、その後も各種の治療薬が普及していき、患者の多くが治癒するようになりましたが、昭和28(1953)年「癩(らい)予防法」を引き継ぐ「らい予防法」が制定されました。この法律でも、患者の隔離が継続され、明確な退所規定も設けられませんでした。
平成8(1996)年「らい予防法」が廃止され、約90年続いた隔離政策はようやく終わりました。その後、平成10(1998)年、療養所入所者たちが起こした裁判で、平成13(2001)年に隔離政策を進めてきた国の責任を認める判決がありました。これを受けて、国は入所者たちに謝罪しました。そして平成21(2009)年には新たな補償を行う法律が施行され、入所者や療養所を退所した社会復帰者たちの名誉回復、社会復帰支援、ハンセン病問題の啓発活動に取り組んでいます。
その後、元患者家族に対して、補償を行う法律も施行されました。しかし、ハンセン病に対する社会的な偏見はいまだに残っており、療養所から故郷に帰れる人は少数しかいません。

■人権が尊重される豊かな社会を
新型コロナウイルス感染症とハンセン病に共通していえることは、正しい知識を持つことが大切だということと、恐れるのは「人」ではなく「ウイルス」だということを、改めて確かめ合いたいと思います。
ハンセン病問題から多くのことを学び、人権が尊重される豊かな社会をつくりあげることは、私たちみんなの願いであり、また責務なのではないでしょうか。

問合せ:人権センター(大路二、キラリエ草津3階)
【電話】563-1177
【FAX】563-7070

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