■水が湧かない井戸たち
宇土の町中で、道路などの一画から突き出た「井戸」を見たことがあるでしょうか。井戸とは普通、水が湧く地下深くまで竪穴(たてあな)を掘り、そこから地下水を汲み出して使用するための施設です。これに対し、宇土の町中にあるこれらはそうではなく、江戸時代に造られた上水道施設「轟泉水道(ごうせんすいどう)」の一部です。
轟泉水道は、良質な地下水に恵まれなかった宇土の町に生活用水を届けるため、現在の宮庄町にある湧水「轟水源(とどろきすいげん)」(昭和60年選定日本名水百選)から水を引いた上水道施設です。今から360年前の寛文(かんぶん)四(1664)年に、瓦質管(がしつかん)(屋根瓦と同様、粘土を原料とした焼物の管)による最初の施設が完成し、およそ百年後の明和(めいわ)六~八(1769~71)年頃、老朽化した管を丈夫な馬門石(まかどいし)製の石管に取り替える改修工事が行われました。以来、宇土の町を潤し続け、現在でも六十数戸が水を利用する、日本最古の現役上水道として知られています。
水道とは言っても、現代水道のようにポンプで加圧し、蛇口をひねれば水が出るようなものではなく、水道管内の流水は自然勾配によります。令和4年度の測量成果によれば、起点となる轟水源から途中の一里木町まで、距離約2.3kmに対し比高差は約4.8mしかなく、単純計算すれば、その勾配は約480分の1という精密さでできていることになります(※)。
そして、本管の途中からいくつも枝分かれし、水を汲み出すため各所に設けられたのが、冒頭に述べた井戸です。武士の屋敷には個別の井戸が設けられましたが、それ以外の庶民は、公共の場である道端に設けられた共同井戸を利用しました。
井戸は、地表に見える部分は地下水を汲む普通の井戸と変わりませんが、地下には水を溜めるための甕(かめ)、あるいは石臼のようなものが埋設されています。そして甕の上部に何段かの井戸枠をのせ、最上部を地表に露出させています。水溜めの側面には一部穴があけられ、そこに本管から枝分かれした導水管(引込管)が接続し、内部に水を供給しています。この導水部分の勾配や穴の高さも緻密に計算されており、水の使用により井戸内部の水位が下がった分だけ、自動的に給水される仕組みになっています。
近年、住宅の建て替えなどに伴い、敷地内に存在する轟泉水道井戸の取り扱いが問題になるケースが散見されます。市では、貴重な文化財かつ現役水道でもあるこれらの井戸について、可能な限り現状のまま残していただくようお願いしていますが、やむを得ず撤去に至ったケースもあります。その場合も、井戸や引込管の構造などを可能な限り記録するための発掘調査を行い、取り上げた井戸や水道管(石管)は市で保管しています。今回紹介した井戸の下部構造などは、こうした調査を通して判明したものです。
先人が遺(のこ)した貴重な水道施設「轟泉水道」。今回は井戸を中心に紹介しましたが、他にも各所に様々な工夫が施されています。単に古い水道というだけでなく、江戸時代の技術力について知ることができる貴重な文化遺産でもあります。
※水道が屈折や分岐する要所には枡(ます)と呼ばれる一時的な水溜め施設があり、厳密には、溜めた水の上部から再び下流に流すなどして高さを調整する機能があるとみられます。
問合せ:文化課 文化係
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