■消えた古墳たち
宇土市三拾町の一画に、「高濱武蔵守逆修碑(たかはまむさしのかみぎゃくしゅうひ)」と呼ばれる板碑(いたび)(板状の石材に仏像や梵字(ぼんじ)、銘文などを刻んだもの)があります。刻まれた銘文によれば、天正十二(1584)年、高濱武蔵守吉信という人物が逆修(自分自身を生前供養すること)のために建てたもののようです。元は現在の場所から西へ500m程の、三拾町字鋤崎にあったものが、圃場整備に伴って現在地に移されました。
この板碑をよく観察すると、碑文や仏を表す梵字などの他に、細い線状の彫り込み(線刻(せんこく))がみられます。直線と曲線(弧線)から成る線の特徴から、これは主に5世紀代(古墳時代中期)に、古墳の石室内部や石棺などに施された装飾文様「直弧文(ちょっこもん)」であり、また石材全体の大きさ・形状を考慮すれば、この板碑自体が、元は古墳の横穴式石室の内部に立てられた石材「石障(せきしょう)」だったと考えられます。古墳が造られて数百年の後、板碑を彫る石材として再利用され、現在に至るとみられます。
ただし、この石障が元々あったとみられる、横穴式石室を持つ古墳は付近に存在せず、この石材がどこから運ばれてきたのかは不明です。可能性のひとつとして挙げられるのは、現在の場所から南へ約1.2kmの石ノ瀬遺跡(石小路町)です。ここでは古墳の墳丘に立てられる円筒埴輪(えんとうはにわ)の破片が出土しており、三拾町の石障と近い時期のものと考えられます。石ノ瀬遺跡に古墳は現存しませんが、そこは中世末期、宇土の城下町を守る前線基地と言える「石ノ瀬城跡」が存在した場所で、現在でも周囲より少し高まった地形を観察できます。ここに元々古墳があり、中世に城を築く過程で破壊されたと仮定すれば、打ち捨てられた石室石材の一部が板碑として転用された可能性は考えられます。
帰属する古墳がわからない古墳時代遺物は、三拾町の板碑だけではありません。近世宇土城跡(城山)の三ノ丸跡(神馬町)では、昭和四十四(1969)年、採土工事に伴って石垣が発見され、発掘調査が行われました。この時出土した石材の中に、線刻で船らしき絵が描かれた石材が4石確認されました。詳細は不明ですが、これも付近に存在した装飾古墳の石室材が、城の石垣に転用されたものと考えられています。
さらに、宮庄町にある縄文時代の貝塚「轟貝塚」でも、円筒埴輪片や須恵器片など、少数の古墳時代遺物が見つかっています。中には、後漢時代(1~3世紀頃)の中国で作られ、日本に持ち込まれたとみられる鏡の破片もあります。小片であるため詳細は不明ですが、文様から「内行花文鏡(ないこうかもんきょう)」または「方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)」という種類の鏡と推定されます。一般的に、こうした鏡を持つ古墳は一定以上の有力者を葬った前方後円墳である場合が多いのですが、やはり轟貝塚の付近に該当する古墳はみられません。
数ある遺跡の中で、古墳はその墳丘や石室など、地表からでもわかり易い構造物があるおかげで、一般にも認知され易く、千数百年経った現在も原形を留めるものが全国に多くあります。しかし、中には消滅して現存しない古墳も相当数あったと考えられます。今回御紹介した遺物は、そんな「消滅した古墳」の存在をわずかに現代に伝えています。
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