湯前に電気が開通したのは、いつだったのでしょうか。隣の『水上村史』によると、大正9(1920)年5月1日、岩野に初めて電灯が点灯したとあります。湯前の俳人、井上微笑(びしょう)も大正9年の夏ごろに「電灯しばしば消ゆ」と題して「闇に飛 それと知られぬ 火取虫(ひとりむし)」という句を詠んでいます。以上のことから、大正9年ごろには湯前に電気が開通していたと思われます。
■那須良輔の「電気随想(ずいそう)」
昭和54年3月23日の「電気新聞」に那須良輔の「電気随想」が掲載されていて「湯前に電灯がともったのは、大正10年ごろだったと思う」と述べています。子どもたちは、杉丸太の電柱が建てられ、架線されてゆくのを毎日見守っていたそうです。当時の様子が興味深く書かれているので、一節を紹介したいと思います。
■架線工事ごっこ
「私が小学校の一年生のころのことである。架線工のおじさん達が腰に電線切りのペンチなどを下げて、地下足袋(じかたび)の裏に歯のついた金具をつけ、電柱にスルスルと登る姿がとても〝かっこ〟よく見えたものだ。
当時私は大変な悪童で、村中の高い木には猿のように登って、すべて征服したものである。しかし直立した電柱には簡単には登れないことが分かっていただけに、地下足袋の裏につける金具がうらやましくて仕方がなかった。
それからというものは、村中の悪童の間に架線工事ごっこが流行した。トタンの切れはしを拾ってきて、下駄や藁草履(わらぞうり)の裏に針金でくくりつけ、電柱に登ろうと試みるのだが、真似ごとの金具なので歯が立たず、みな失敗に終わった。しかし悪童達の架線遊びはエスカレートして、こんどは山へ行ってアケビやフジズルをとってきて、庭先の木から木へと張り巡らすのであった」
那須良輔は昭和42年『人吉文化』11月号に寄稿した「ふるさとの記」にも架線工事ごっこ(電気屋ごっこ)のことを書いています。よほど思い出深かったのでしょう。しかし、大正13年に国鉄湯前線が開通すると、電気屋ごっこに替わって汽車ごっこが流行の第一線となったということです。昔の子供たちも流行には敏感だったようです。
「電気随想」には架線工事ごっこのほかにも、電灯が灯ってランプの火屋(ほや)磨きから解放されたことや、まだ電気が開通していなかった椎葉村から親戚(しんせき)が訪ねてきて、電灯の明かりに驚き、帰るときに電球だけを買って帰り、ひもの先にぶら下げたが明かりがつかないとこぼした、という話などが紹介されていて、興味が尽きません。
教育課学芸員 松村祥志(しょうじ)
<この記事についてアンケートにご協力ください。>