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湯前歴史散歩 城泉寺(浄心寺)保存の歩み(3)

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熊本県湯前町

■城泉寺(浄心寺)の阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)と両脇に立つ観音菩薩(かんのんぼさつ)・勢至菩薩(せいしぼさつ)の3体の仏像は、1229年(鎌倉時代)に制作されたもので、優美で柔和なお姿は、皆さんもご存じのことでしょう。しかし、大正4年の国宝(旧国宝)指定当時には、現在のようなきれいなお姿ではなかったようです。
前回、湯前村国宝保存会の設立と寄附金募集について紹介しましたが、寄附金募集許可願いの中で、仏像はすでに国宝に指定され、国費の補助を受けて修理中であることが書かれていました。今回は当時の仏像修理の様子を見ていきたいと思います。

▽仏像の損傷状況
国宝指定当時の写真を見ると、観音菩薩の右腕が途中から欠失(けっしつ)していたり、勢至菩薩の髻(もとどり)※が無くなっていたりと、破損していたことが分かります。仏像の表面には、江戸時代後期の天保9年(1838年)に、久米の弓削田市内(ゆげたいちない)という人物によって彩色が施されていました。『湯前町史』では「この弓削田市内という人は妙(みょう)な人で、たいした腕も持ってはいなかったくせに、とにかく分っているだけでも相当多数の仏像に手をかけ、いずれも拙劣極(せつれつきわ)まる着色を施し、補修を行い、ほとんど台なしにしてしまった物さえ少くない」と手厳しく評しています。城泉寺の仏像も「衣文(えもん)着色拙劣ヲ極ム」(修理設計書)という状態でした。
※髪の毛を頭の上に束ねた部分

▽仏像の修理
状態が悪かったため、大正5年には、さっそく修理をすることになったようです。6月22日に文部大臣から修理の許可がおり、6月30日~9月28日にかけて、人吉市の願成寺に設けられた修理場で、修理されました。
後世の着色を洗い去り、欠失の箇所を補い、矧目(はぎめ)の損傷を緊結(きんけつ)し、古色仕上げとするなどの修理が行われた結果、当初の優美な姿によみがえりました。

▽仏像の受け取り
修理が終わると、湯前村役場は村内各区に、仏像受け取りのために各区より青年1名ずつを出すようにと通知をしています。当時、湯前村は11区に分かれていましたので、11人の青年が願成寺まで仏像の受け取りに行きました。各区から選ばれたのは、那須政蔵(上村)、落合安蔵(上猪鹿倉)、深水常雄(中猪鹿倉)、桑原庄太郎(上里)、溝辺卯平(下猪鹿倉)、久保田喜由(瀬戸口)、牧野平馬(下村)、西牧治(古城)、藤本義光(馬場)、武藤金作(下里)、落合浦助(下城)の11名でした。
青年たちを巻き込みながら修理され、村を挙げて国宝を保存していく機運が醸成(じょうせい)されていったと思われます。

教育課学芸員 松村祥志(しょうじ)

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