新春の風物詩・東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)。これまで数々のドラマを生み出してきました。毎年、平塚中継所で選手を応援するのが楽しみ、という方も多いのでは?今号では、箱根駅伝の中継所として選手の思いをつないできた平塚と箱根駅伝の関わりを紹介します。
◆平塚は第1回大会から中継所だった
(平塚中継所)
次の大会で100回目を迎える箱根駅伝。日本マラソンの父と呼ばれる金栗四三(しそう)らの働きかけで、大正9年に産声をあげました。平塚には第1回大会から中継所が置かれ、幾多の選手の思いをつないできました。
『箱根駅伝70年史』(関東学生陸上競技連盟)によると、大正9年2月14日・15日の初大会は「四大校駅伝競走」の名前で開かれています。早稲田大学・慶應(けいおう)義塾大学・明治大学・東京高等師範学校(現在の筑波大学)の4校が参加したためです。風光明媚(めいび)で多くの史跡に富む東海道を下って箱根の山に挑むのは勇壮で、宿泊や通信連絡にも便利だ、という理由で東京―箱根間のコースが決定されました。
初めに予定していた開催日は2月11日でしたが、紀元節(現在の建国記念の日)で学生らが各校の式典に参列しなければいけないことなどから、14日に順延されました。14日は土曜日のため、学生らは午前中の講義を受けてから大会がスタート。午後1時に有楽町の報知新聞社前(現在の読売会館)を出発しました。平塚中継所に1位の明治大学の選手が到着した時刻は午後5時6分9秒。箱根小学校前のゴールにも明治大学の選手が1位で到着しました。箱根町の青年団がたいまつを手に、暗夜を照らしたといいます。
15日の復路はあいにくの雪。午前7時に箱根を出発し、平塚中継所に1位の明治大学の選手が到着したのは午前10時2分50秒。近隣の住民が傘のトンネルを作って選手を励ましたそうです。県立農業学校(現在の平塚農商高校)の生徒らは大磯や馬入の河畔に散らばり、雪の中を駆ける選手に声援を送りました。報知新聞社前のゴールには、明治大学に逆転し東京高等師範学校の選手が1位で到着。総合記録は15時間5分16秒でした。
◆中継所は東海道と海沿いを移りゆく
『箱根駅伝70年史』の大会レポートによると、第1回大会のときの平塚中継所は、富士の湯旅館前とされています。下の地図は、第6回大会が開かれた大正14年に作られたものです。第6回大会の中継所は牛田新聞店前で、下の地図の旧国道1号沿いに名前を確認できます。
箱根駅伝は幹線道路がコースになっていることから、交通事情などの理由で、これまでコースや中継所の位置が何度も変わってきました。かつては、現在のひらしん平塚文化芸術ホール周辺にあった平塚小学校や、平塚町役場(現在のオーケー平塚店)が中継所でした。その後もガソリンスタンド前、平塚駅入口三叉路(さんさろ)、市営プール前などの名前で、平塚市内で何度も中継所の位置が変わっています。
『箱根駅伝六〇年』(山本邦夫著)によると、平塚中継所が現在の唐ケ原交差点と高村不動産前の付近で定着したのは、昭和45年の第46回大会のときです。当時は、花水レストハウス前という名称でした。
◆終戦後の平塚を駆け抜けた夏苅さん
(24・25回大会)
昭和4年に足柄下郡下中村(現在の小田原市)で生まれ、平塚で青春時代を過ごした夏苅(なつがり)晴良さん(箱根駅伝出場当時は旧姓の久保晴良さん)。現在94歳の夏苅さんは、昭和23年の第24回大会と昭和24年の第25回大会で、明治大学の選手として4区を走りました。第25回大会では明治大学が優勝。優勝メンバー10人のうち、残念ながら夏苅さん以外の皆さんはすでに鬼籍に入ったと言います。現在二宮町に住む夏苅さんに、箱根駅伝と平塚の思い出を語ってもらいました。
◇戦争の色残す平塚中継所
私は第2次世界大戦中に平塚農商高校に通っていて、4年生だった年の昭和20年8月に終戦を迎えました。戦争の勤労奉仕が終わり、5年生のときに本格的に陸上を始めました。私を含めた5年生3人と4年生3人のチームでいろいろな大会に出て、どこでも1番になっていました。明治大学や日本大学からスカウトが来ましたが、戦後初めて開かれた昭和22年の第23回箱根駅伝で明治大学が優勝した印象が良かったので、明治大学に進学しました。私が箱根駅伝を走ったのは1年生と2年生のときです。
◇地元の熱い応援受ける
当時の平塚中継所は、平塚市役所前(2面下地図の平塚町役場と同じ位置)にありました。私が走ったときはまだ、平塚中継所の東側に海軍火薬廠(かやくしょう)の引き込み線(火薬を運ぶ線路)があったんですよ。
昔はテレビ中継なんてなかったでしょう。中継所で待っているときも、今みたいに選手に情報が入ってこなかったんですよね。前の区を走っている選手は今どこか、どんな状況かなんて分からないわけです。第24回大会のとき、3区の先輩が猛烈な勢いで追い上げているという話を耳にしたのに、平塚中継所になかなか姿を見せなかったんですよ。どうしたんだろう、まだかまだかと待っていたら、沿道を自転車で走って様子を見てきた観客が、「3区の選手が馬入川のあたりで走れなくなっていて、歩いているぞ」と教えてくれたんです。
その頃は厳密な交通規制もなかったので、自転車で選手に並走してくる人がたくさんいました。自転車に乗りながら状況を伝えてくれたり、選手を励ましてくれたりしていたんです。思い返すと、おおらかな時代でしたね。地元の人たちが木炭車のトラックに乗り込んで、選手に、「がんばれよー!」なんて言って着いてくるんですから。
平塚の四之宮に、私と同じく平塚農商高校から明治大学に行った先輩がいたんですが、応援団を作ってくれて、「フレーフレー!久保!」と、応援してくれたのをよく覚えています。
◇足袋で平塚を駆け抜けた
当時のランナーの服装も、そりゃあ今とは全然違います。箱根の山は寒いので、選手はウエアに真綿を入れていたものです。
私は第24回大会で大塚のマラソン足袋(記事冒頭の金栗四三と、東京都文京区大塚にあったハリマヤの職人が共同開発したマラソン用の足袋)を履いて走りました。でもマラソン足袋は、親指のところが分かれているのがどうにも気になってね。翌年の第25回大会では、釘を取ったスパイクシューズを地下足袋の底に自分で縫い付けて走りました。そのときは5区の岡正康さんがズック(運動靴)で走っていたのを覚えています。
走ることが好きで、83歳までマラソン大会に出ていた私にとって、箱根駅伝は生きがいです。コロナ禍では沿道での応援ができませんでしたが、今年は沿道で選手たちを応援したいですね。
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