阿弥陀仏如来及び両脇侍立像
大町・教恩寺(きょうおんじ)の本尊・阿弥陀如来(あみだみょらい)及び両脇侍立像(りょうきょうじりゅうぞう)は、鎌倉時代前期に造られた美作です。
中央の阿弥陀如来は、両手の指で輪を造る来迎印(らいごういん)を結び、厳かな表情で礼拝者を見つめ、その傍らに蓮台(れんだい)を持つ観音菩薩(ぼさつ)、合掌する勢至(せいし)菩薩が付き随(したが)っています。
阿弥陀如来像の容貌や衣の着方、襞(ひだ)の表現は、鎌倉時代前期に活躍した仏師快慶(かいけい)の作品によく似ています。
快慶は生涯に多くの阿弥陀如来立像を造りました。中でも初期の作品に「安阿弥(あんなみ)」という阿弥陀仏号(法号)を記しており、教恩寺の阿弥陀如来像には、その時代の快慶作品の特徴が認められます。
一方で、両菩薩像に見られる腰を曲げて立つ形式は、承久(じょうきゅう)三年(一二二一)に快慶が造った和歌山県・光臺院(こうだいいん)の像が最初の作例と言われています。これは快慶の晩年の作品なので、教恩寺の本尊は、快慶の初期と晩年の特徴が同時に表れていることになります。快慶もしくはその周辺の仏師の作品であることは間違いないのですが、それぞれの像の特徴に年代差があるので、具体的な制作時期を判断するのが難しい仏像です。
実は、教恩寺の三尊像(さんそんぞう)は『新編鎌倉志』や『新編相模国風土記稿(さがみのくにふうどきこう)』など、江戸時代の鎌倉の様子を記した史料では、運慶(うんけい)の造った仏像として紹介されてきました。
運慶の仏像は、近辺では横須賀市・浄楽寺(じょうらくじ)で見ることができ、顔が丸く張り、身体に厚みがあるのが特徴です。教恩寺の三尊像は、これと比較すると細身で軽やかで、先述の通り快慶作品に近いため、運慶の仏像ではありません。
しかし、鎌倉には教恩寺の他にも運慶作と伝承されてきた仏像が多く残っています。実際には運慶より後の時代の仏像であることがほとんどですが、近世の鎌倉の人々は、この地域にある優れた仏像は運慶作だと信じていました。教恩寺の仏像は、鎌倉の人々が運慶を敬愛した証拠とも言えるのです。
この三尊像は、12月1日(日曜日)まで鎌倉国宝館で開催する特集展示「鎌倉の伝運慶仏(でんうんけいぶつ)」で、修理後の姿を初めて公開しています。
(県指定文化財 阿弥陀如来98・8センチ、観音菩薩70・8センチ、勢至菩薩70・3センチ、教恩寺蔵)
[鎌倉国宝館]
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