■誉純(しげすみ)の想いから創立された藩校(はんこう)
現在の坂井市には、24の小中学校があり、子どもたちが勉学に励んでいます。今回は、丸岡藩の政治を支えた藩士たちが学んだ藩校についてご紹介します。
藩校とは、主に藩を支える藩士の子弟が学問や武芸を学ぶ場でした。そのため、庶民の子弟が対象だった寺子屋が私設の教育機関だったのに対し、藩校は藩によって直接運営されていたのです。
丸岡藩には、享和(きょうわ)4年(1804)に越前で最初の藩校ができました。この藩校を開校したのは、丸岡藩有馬家の5代藩主で、文化・教育政策に積極的に力を入れた、有馬誉純(ありましげすみ)です。誉純が開校した藩校は、「平章館」と命名されました。政治史や政教を記した古代中国の歴史書『書経(しょきょう)』の中の「親族がそれぞれ仲良くしていけば、全ての家々が平和になり、天下はよく治まる。さらに万国も協和していく」という意味の文言から引用されています。平章館は、丸岡城南側の三の丸(現在の國神神社付近)に位置しており、誉純の自筆の額が掲げられていました。
平章館の出身者には、史跡や風土の研究を続けた鷹屋純芳(尾喜)や、丸岡藩有馬家の記録『藤原有馬世譜』の編集に携った青木松秀らがいました。また、学んだ知識を活かし、藩に願い出て塾を開く藩士もいました。
平章館は、誉純の学問に対する熱い想いから創立された藩校であったことがわかります。さらに、藩校に通っていた藩士たちも誉純の想いに応えるように、勉学に励み、学んだ知識を活かして藩に仕えていたのではないでしょうか。現在の平章館跡地には石柱があるだけですが、そこからは、丸岡城天守を望むことができます。丸岡藩のために勉学に励んだ藩士たちに思いをはせながら、丸岡城周辺を散策してみてはいかがでしょうか。
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