■丸岡の殿様も滝谷まで海水浴に!?
寛永元年(1624)に丸岡藩が誕生しましたが、同藩が治めた領地は、丸岡城の城下町やその周辺だけではありませんでした。例えば三国湊(福井藩領)に隣接する滝谷や、日本海沿岸の梶など、城下から離れたところにもあり、多くが坂井平野に点在していました。また牛ノ谷(うしのや)(あわら市)、大門(だいもん)や合波(あいば)(南越前町)など、現在の坂井市外の遠方にもありました。
貞享3年(1686)、幕府の命令で福井藩の領地が一部削られ、坂井平野にある福井藩領の多くが、幕府が直接治める幕府領になりました(後に一部福井藩に戻ります)。江戸時代、全国各地では、さまざまな藩などの複数の領地が混在していましたが、越前でも現在の坂井市域を含めた坂井平野は特にその傾向が強く、主に福井藩領、丸岡藩領、幕府領がジグソーパズルのように入り組んでいたのです。
隣り合っている村でも、例えば北横地は福井藩領(一部丸岡藩領)、南横地は丸岡藩領、また上兵庫は丸岡藩領、下兵庫は幕府領と、全く違う領地でした。今ではひとつの坂井市ですが、当時は「隣の村の殿様が違う」ということがしばしばあったのです。このことは、例えば用水の利用などをめぐり村同士が争った時には、村だけでなく、福井藩と丸岡藩が対立するなど問題が複雑化して、容易に解決しませんでした。
丸岡藩領の中でも、特に滝谷は、領内で収穫された年貢米が兵庫川や田島川、竹田川などの河川交通で運びこまれて、藩の蔵が置かれ、藩内で通用する紙幣(藩札(はんさつ))もつくられるなど、重要な役割を担う場所でした。丸岡藩主もたびたび視察や「潮湯治(しおとうじ)」で訪れています。潮湯治は現在でいう海水浴で、当時は病気の治療を目的に行われていました。
丸岡藩の世界は城下町だけでなく、現在の坂井市域のあちらこちらに展開していたのです。
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