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さかい風土記158 天守(てんしゅ)はどのように使用された?

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福井県坂井市

■「空き家」だった丸岡城天守
「丸岡城天守にはお殿様(藩主)が住んでいた」。こうした誤解をしている人は意外と多いのではないでしょうか?
江戸時代の丸岡城には、天守や櫓(やぐら)、御殿(ごてん)、蔵、城門など、さまざまな建物がありました。お城の中心にあった最も高い櫓が天守です。天守は藩のシンボルのような建物でしたが、人が日常的に生活するための施設ではありませんでした。藩主が居住したのは御殿であり、普段の天守は無人の「空き家」のようになっていることが多かったのです。他のお城では、天守が普段施錠されていた事例(名古屋城)や、武器倉庫としての使用事例(彦根城)が知られています。丸岡城でも、藩主が生活したり政務をとったりしていたのは、二の丸の御殿であり、藩主が本丸(現在の城山)や天守に立ち入ることはめったにありませんでした。
藩主が天守に登るのは、特別な儀式の時でした。文政(ぶんせい)11年(1828)の『霞城秘鑑(かすみじょうひかん)』という書物には、参勤交代(さんきんこうたい)を終えて江戸から帰還した丸岡藩主が、本丸や天守に登る儀式について書かれています。それによれば、帰城後、藩主は二の丸の御殿(御住居)から本丸に進み、天守に登った後、御殿に戻るというのが一連の流れでした。付き従う家来の人数や用意物、事前の手続きなどの規定も記されており、いわば藩主が天守に登る際のマニュアルのような内容です。藩主が天守に登る時には、家臣の側でも入念な準備が必要だったことがわかります。
お城の中心にそびえ立ち、遠くからも見ることができた天守は、地域のランドマークのような建物でしたが、江戸時代に内部に入ることができたのは、藩主のような限られた人だけでした。江戸時代の人は、現在のように毎日多くの人が天守に出入りする状況を想像もしていなかったのではないでしょうか。

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