■早瀬と北前船~船主の足跡はお祭りにあり~
去る6月に美浜町が日本遺産「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間〜北前船寄港地・船主集落〜」に追加認定される原動力となったのは、北前船の歴史・文化を現代に伝える構成文化財の存在でした。
特に早瀬には町並みを含めた多くの構成文化財が伝来しており、北前船による交易が盛んであったことを現在まで伝えています。
ところで、北前船に携わった人々の足跡は、決して船主のご子孫に伝わる資料や古文書にのみ残されているのではありません。多くの人達が参加している早瀬のお祭りにも、その足跡は確かに残されています。そこで本コラムでは、早瀬のお祭りと北前船の関係について、ご紹介したいと思います。
5月の上旬、豪華な衣装を身にまとった子どもたちが三番叟(さんばそう)を披露する子供歌舞伎において、舞台の役割を果たす曳山(ひきやま)は北前船の往来が盛んであった安政4年(1857)に建造されたことが知られています。
当時の記録によれば、流行病の対抗策として歌舞伎の奉納が始まったものの、旧来の曳山が粗末だったので新調されました。曳山の建造に掛かる資金には集落の積立金等が充てられましたが、極上品を作っても余ってしまう程、資金が集まり過ぎたとされています。この記録は北前船交易による収入もあり、この時代の早瀬が非常に豊かな集落であったことを物語っています。また、同史料中で村を代表する庄屋や組頭に続いて、有力な船主であった石橋与市の名が記されていることからも、この曳山新調に北前船の存在が影響していたことは間違いないでしょう。
また、毎年7月末に行われる水無月(みなづき)祭りは神輿が船に乗り、海を渡ることで知られていますが、この神輿も北前船と深い関係にあります。
残念ながら神輿自体の製作についての記録は認められませんが、その正面に据えられている御神鏡の裏面には、天保6年(1835)の製作年とともに、願主の1人として、またしても北前船主石橋与市の名が記されています。また神輿に付ける瓔珞(ようらく)等の飾りも、その箱書きから鏡と同じく天保6年に石橋与市も係り、京都の職人に依頼して制作されたことが分かっています。
すなわち、現在のお祭り風景の基礎が北前船の時代に設えられており、もし早瀬が北前船交易により利益を得ていなければ、その形は大きく違っていたかもしれません。
なお、今回ご紹介した曳山と神輿は普段公開されていませんので、来年のお祭りの際は早瀬に訪れてみるのは如何でしょうか。
(美浜町歴史文化館)
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