■『小粕窯跡』編(5)
学H:さて前回は小粕窯跡から湖東式軒瓦が出土していることを説明しました
E子:確か湖東式軒瓦は滋賀県東部の寺院跡で出土する瓦でしたよね?
学H:その通りです。湖東式軒瓦は、別名を近江様式ともいう古代瓦の様式名で、滋賀県東部(湖東地域)の愛知郡、蒲生郡を中心に寺院跡から出土しています。
花弁中に子葉を入れ、中房の周囲及び外区に珠文が巡る軒丸瓦や、重孤文と瓦当下端部に指先で波状文が施してあることが特徴です。滋賀県以外では岐阜県・長野県・福井県などで出土が確認されていることから東海方面にもその波及が認められます。
E子:当時は寺院のみに瓦が葺かれていたのですか?
学H:初めて瓦が作られたのは約二八〇〇年前の中国とされています。日本には、百済から仏教とともに伝来しました。最初は寺院のみでしたが、時代が経つにつれて役所にも葺くために造られるようになりました。寺院や役所に葺かれた瓦は、それを造営した豪族や役人たちの「建物外観を中央(畿内)のものとできるだけ近づけ、自分たちの権威を示す」という政治的な意思を反映するものでした。
福井県で瓦が最初に使われたのは七世紀半ばのことです。越前では、深草廃寺(越前市深草)と篠尾廃寺(福井市篠尾町)を皮切りに、野々宮廃寺(越前市五分市町)・三宅廃寺(福井市三宅町)といった寺院が七世紀後半から八世紀にかけて創建されました。また、丹生郡の郡衙(郡役所)跡と考えられる高森遺跡(越前市高盛町など)からも瓦が見つかっています。これらの寺や役所の建物すべてが瓦ぶきではありませんでした。どうやら特に重要な建物だけに葺いていたようです。
E子:重要な建物というと金堂とかですか?
学H:その通りです。例えば寺では塔や金堂(本尊を安置した建物)など、信仰や法会の中心となる建物、役所では政庁のように儀式を行って国家の権威を示すような建物と考えられます。
E子:古代の瓦って雨をしのぐためのものだけではなく、政治的な意思があったのですね。
学H:そのような瓦について次回も説明していきます。
[引用・参考文献]
織田町教育委員会『小粕窯跡発掘調査報告書』一九九四年
久保智康「近世赤瓦の系譜」『北陸の瓦の歩み』(株)日本セラミックス協会北陸支部二〇〇一年
中原義史「古代の瓦と寺院」『北陸の瓦の歩み』(株)日本セラミックス協会北陸支部二〇〇一年
越前町教育委員会『越前町織田史(古代・中世編)』二〇〇六年
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