■古代山城と大宰府(2)
本年6月号で、古代山城と大宰府の問題をとりあげました。今回はその続きです。前回、従来は大きく朝鮮式山城と神籠石系山城に分類されていたものを合わせて古代山城と呼ぶのが一般化してきたことにふれました。ただ、やはり朝鮮式、神籠石系という分類には根強いものがあります。特に1980年代の研究では、文献史料に記載のあるものが朝鮮式、一方で記載のないものが神籠石系との考え方が出てきて、現在の古代山城関係の論文でもしばしば目にします。文献記載の有無について、古代山城研究会代表の向井一雄(むかいかずお))さんは、この基準による分類の固定化が山城遺跡の多様性を見失わせたといいます。さらに文献未記載は、神籠石の定義にはまったく含まれていなかったもので、神籠石という分類が本来もっていた考古学的な意味あいが失なわれていったと指摘します。
そもそも神籠石とは山腹を取り囲む切石の列石のことを指しており、その列石を土留めの根石(ねいし)として版築(はんちく)の土塁がとりつき、前面に木柵を備えること、また水門や城門が付随する場合もあることが発掘や踏査によって明らかになってきています。向井さんがいうように、そのありかたはきわめて多様で、文献未記載というだけで括れるものではありません。
向井さんはさらに、80年代の研究によって、以前の年代論・築城主体論が振り出しに戻ったとも指摘しています。つまり、いつ築城されたか、そして誰が主体となって築城したかという問題です。現状では、築城年代はおおよそ7世紀初頭~8世紀初頭に集約されつつあり、一方、築城主体は中央国家か地方豪族で学説が分かれています。このことは、古代山城と大宰府との関係にとっても重要な意味をもっており、時期と主体のありかたによっては、両者の関係の再検討も視野に入ります。近年、古代山城の発掘調査も進んできたことから、その成果も取り入れつつ、この問題を考えることが求められています。
太宰府市公文書館
重松(しげまつ)敏彦(としひこ)
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