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歴史探訪 広報あさくら400号記念特集(1)

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福岡県朝倉市

秋月藩成立から400年―。秋月藩の歴史を振り返る
祝!400号!いつも広報あさくらをご愛読いただきありがとうございます!

令和6年(2024)は初代秋月藩主の黒田長興(ながおき)が秋月に初めてお国入りしてから400年になります。父の黒田長政(ながまさ)から治世術を教わった長興は、秋月城の整備を手始めに、道路や水路、町割りなど城下町秋月の礎を築いています。
中興の名君として名高い8代藩主の黒田長舒(ながのぶ)は、高鍋藩(宮崎県高鍋町)の秋月家から養子として迎えられました。教育・文化の素養が高く、藩校「稽古館(けいこかん)」などを整備して藩士教育に力を注ぎました。また葛(くず)や紙、川苔(かわたけ)など、新たな産業の創出に努めて、藩財政の立て直しを図っています。このような産業の奨励策は、叔父で米沢藩(山形県米沢市)の藩主上杉鷹山(ようざん)の影響が大きかったといわれています。
この特集では、現在まで残る秋月藩の足跡を歴史や文化、伝統などを交えて紹介します。

■福岡藩の成立と秋月
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、筑前国を黒田長政に与えます。長政は博多の隣に新しく「福岡」という城下町を形成して、福岡藩の初代藩主となります。そして秋月には長政の叔父黒田直之(なおゆき)が1万石を与えられ、領主として移り住みました。
秋月は戦国時代からキリスト教が盛んであり、直之も熱心なキリシタンであったことから、慶長12年(1607)には天主堂が建てられ、洗礼を受けた者は2000人に及んだといわれています。後に江戸幕府によるキリスト教の禁教令の影響により、秋月に残ったキリスト教の施設や関連の資料はことごとく処分されています。現在ではキリシタン灯篭や十字架文様の瓦が確認されているのみです。

■秋月藩の成立
元和9年(1623)長政が死去すると、福岡藩の後継ぎ問題が起きます。結果的には長男の忠之(ただゆき)が福岡藩(本藩)の後継ぎとなり、三男の長興は秋月を中心とする5万石が分け与えられて、支藩秋月藩が成立します。そして翌年の寛永元年(1624)7月、長興は秋月へ初めてのお国入りを果たしました。
寛永3年(1626)長興は大御所徳川秀忠(ひでただ)に謁見しました。これにより秋月藩は幕府から正式に認められ、江戸の芝に屋敷地を与えられます。しかし同時に参勤交代や江戸城の改修工事、朝鮮通信使の接待役などを務めることとなり、藩の財政に大きな負担となっていきます。
寛永14年(1637)島原・天草でキリシタンの反乱が起きます。いわゆる島原の乱です。この戦いでは長興も約2000余の兵を率いて参軍しており、し烈な戦いを極めながらも幕府軍の一翼として活躍しています。このときの逸話をまとめた『嶋原一揆談話』をもとにして描かれたのが「島原陣図屏風(しまばらじんずびょうぶ)」です。

■秋月藩の栄枯盛衰
安永3年(1774)7代藩主となった長堅(ながかた)は、天明4年(1784)将軍徳川家治(いえはる)に謁見せず18歳で死去しました。後継ぎが決まっていない中での死去は、藩のお取りつぶしにつながることから、家老たちはこのことを幕府に隠し、福岡本藩と協議を進め、翌年、日向高鍋藩主の秋月種茂(たねしげ)の次男幸三郎(こうざぶろう)を養子に迎え、後継ぎとしました。この人物が8代藩主の長舒になります。
一連の後継ぎ問題の結果、福岡本藩が務めていた長崎警護番役を秋月藩が代わって行うこととなり、長舒と9代藩主長韶(ながつぐ)が務めました。この時の縁で、長崎の石工を招いて野鳥川に石造りの橋を架けています。文化7年(1810)に完成した橋は、最初長崎橋と呼ばれましたが、後に「目鏡橋(めがねばし)」と呼ばれるようになりました。
長舒・長韶の時代は文化・文政の頃にあたり、浮世絵などが流行し華やかさが好まれた時期ですが、実父の秋月種茂や叔父の米沢藩主上杉治憲(はるのり)(鷹山)のさせて、儒学者の亀井南冥(なんめい)を師とする原古処(こしょ)を教授に据えました。稽古館での教えは、現在も秋月中学校の教育に取り入れられ、郷土をより深く知ることにつながっています。全国で初めて予防接種(種痘(しゅとう))を行った藩医の緒方春朔(しゅんさく)や、藩のお抱え絵師として活躍した斎藤秋圃(しゅうほ)など、優秀な人材を輩出したのも長舒・長韶の時代の特徴といえます。
さらに、幕府の命により全国を回っていた伊能忠敬(ただたか)が秋月藩領を測量した際に、正確な測量術を学んだ藩士たちは、この後、13年の歳月をかけて領内を測量し、「秋月藩封内図(ほうないず)」を完成させました。そのほか、藩財政の立て直しのため、養蚕、ハゼ蠟(ろう)、紙、葛、川茸、杉や檜(ひのき)の植林など、産業の奨励策も積極的に取り入れています。
文化8年(1811)俗に「織部崩(おりべくず)れ」といわれる秋月藩政で最大の事件が起きます。この事件では家老の宮崎織部(おりべ)、渡辺帯刀(たてわき)などが藩主をないがしろにし、藩の金銭を勝手に使い込んだとして処罰されました。家老の失脚により、これ以降は福岡本藩による財政や政治的な介入、思想の統一が一気に進み、藩の成立から一貫していた秋月藩の独立性は衰退してしまいます。

問合せ:市文化・生涯学習課
【電話】28-7341

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