■六曜と人権
十数年前、部落差別の研修で、あるお寺の住職が講師を務められたことがありました。講演の内容は、「六曜と部落差別」であり、その話を要約すると次のようになります。
「六曜は旧暦に基づく『根拠のない』迷信であり、それがいまだに使われていることによって、さまざまな差別を助長している。六曜思想は穢(けが)れを嫌い、清めようとする。その穢れを嫌う価値観が、女性をおとしめ、部落出身者を穢れとし、外国人を畏怖するのである。これは慣習ではなく、因習である」
「六曜とは、旧暦に基づき月と日の数字を足し(10月10日なら20)、それを6で割り、余った数字によって決まる。だから必ずしも大安から仏滅までが規則正しく並ぶものではない。そもそも大安だから日本人がみな安泰な日だというのはおかしな話だ」
「なるほど」と思う反面、テレビなどで大安が吉日として扱われている現実もあります。験を担ぐ商売や習わしにおいて、「大安は迷信だ」と言ったところで、けげんな顔をされるのが関の山でしょう。
「大事なことは何なのか」それは物事を正しく理解し、かつ囚(とら)われないこと。さらには、穢れの思想を人に向けてはならないことではないでしょうか。
「開店日は験を担いで大安にしよう」「六曜は迷信だから結婚式は仏滅でも問題ない」どちらでも結構。その考え方、価値観を人に押し付けないことも囚われないことにつながります。
因習とは「昔から続く風習であり、現在では弊害が生じているようなしきたり(それに無批判に従うこと)」とされています。住職が主張されていた「差別の助長」はまさに弊害ですが、それも正しい理解によってなくすことができると考えます。
「なぜ差別してしまうのか」「なぜ受け入れられないか」は、差別する側、受け入れられない側の問題です。差別される側の問題ではありません。あらためて自身の行動・言動を振り返り、正しく理解することを心掛けてみてください。
差別をする人だけでなく、見て見ぬふりをする人も、いつ自分に差別が降りかかるか分かりません。正しい理解が深まり、寛容な社会になって欲しいと願っています。
問合せ:市人権・同和対策課
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