■難攻不落と言われた城岩石城の歴史
今から約440年前の4月、町内では歴史的な出来事が起きていました。それは、天正15(1587)年の豊臣秀吉による「岩石城攻め」です。今回の歴まちコラムでは、岩石城にまつわる話を紹介します。
岩石城の戦いは豊臣の軍勢が「豊前一の堅城」と呼ばれた岩石城をわずか一日で攻め落としたことで、その力の強さが九州一円に伝わり、その後の九州平定の戦況にも大きな影響を与えたものと考えられています。
岩石城は保元3(1158)年に平清盛が大庭景親(おおばかげちか)に命じて築城させたことに始まり、慶長20(1615)年の一国一城令で廃城に至るまでの約450年間も存続し続けていました。この間、岩石城の城主は次々と替わっており、築城後には源平合戦(治承4(1180)年〜元暦2(1185)年)の影響により、平氏方の大庭氏から源氏方の日田氏が城主になったようです。その後も、筑紫氏や熊井氏などに城主が替わり、戦国時代(応仁元(1467)年〜永禄11(1568)年)に入ると、岩石城の支配をめぐって豊前国の大内氏と豊後国の大友氏との間で激しい攻防戦が繰り広げられました。この争いの理由は、岩石城が豊前国と豊後国の国境付近に位置しており、両国にとって非常に重要な場所だったと考えられるためです。
このように、岩石城では城主の入れ替りがしばしば行われていますが、そのなかでも注目すべきは天文年間頃(1532〜1554)に岩石城を守っていたとされる佐々木源右衛門です。この人物は岩石城周辺の地元有力者と考えられており、この佐々木氏を祖先とするのが「佐々木小次郎」と言われています。佐々木小次郎については残された資料が少なく、その実像は不明な点が数多くあり、小次郎の生誕地も福井説や岩国説など諸説ありますが、近年では添田説も有力な説の一つとなっています。添田説の根拠とされているのは、小次郎が小倉藩の兵法指南役を勤めていたことによるものですが、具体的には次回の歴まちコラムで紹介しますので、乞うご期待ください。
[文・西山紘二学芸員(商工観光振興課歴史文化財係)]
参考文献:
『彦山・岩国城と佐々木小次郎(上)』梶谷敏明(平成20年)
『岩石城』添田町(平成4年)
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