■東蓮寺藩(のち直方藩)の歴史
第11回 直方藩の廃藩と福岡藩主継高公
◇福岡本藩の後継者事情
福岡藩は藩祖官兵衛孝高公から初代長政公、第二代忠之公、第三代光之公と長男が順当に相続しましたが光之公の長男綱之は父子の深刻な対立から1677年に廃嫡され、直方藩主となっていた綱之の弟長寛公が嗣子になり綱政と改名して1688年に第四代福岡藩主となりました。
綱政公は1711年に逝去しましたが、長男吉之はその前年に父に先立って逝去していたため、次男の政則が第五代福岡藩主宣政(のぶまさ)公(1685~1744)となりました。
ところが宣政公は生来病弱で政務をとることができず、正室はいましたが嗣子がいないため1714年に直方藩主長清公(綱政公の弟)の一人息子菊千代(のち長好から継高(つぐたか)と改名。1703~75)が養嗣子となり従四位下(じゅしいのげ)・筑前守(ちくぜんのかみ)に任じられました。宣政公は1719年に隠居して、継高公が福岡藩第六代藩主となりました。
◇直方藩の廃藩
直方藩第四代藩主長清公は1720年に逝去し、本来ならば継高公が第五代藩主となるところ前年に福岡藩主となっていたため、跡継ぎを失った直方藩は廃藩となりました。本家に養子を出した分家の大名家はその後に養子を迎えることができない定めがあったとのことです。
直方藩の領地は福岡本藩に還付され藩士は福岡城下に移転しました。
1623年に誕生し初代高政公、第二代之勝公、第三代長寛公、第四代長清公と続いた東蓮寺藩・直方藩は97年で終末を迎えました。
◇福岡藩第六代藩主継高公
福岡藩第六代藩主継高公継高公は養父の宣政公と異なり頑健で精力的に藩政改革を進めて飢ききん饉の克服、藩財政の立直しを実現して福岡藩中興の名君と呼ばれました。藩主在位五十年は最長です。また初代長政公が着手したが中断した堀川の工事を完成させました。
継高公は二人の後継男子に先立たれて御三卿(ごさんきょう)の一橋家(ひとつばしけ)から養子を受け入れ、官兵衛・長政以来の直系男子の血統は途絶えました。その後も福岡藩は第九代から第十代を除き最後の第十二代まで全部養子でした。
◇多賀神社の継高公寄進の灯籠
多賀神社拝殿の左右の植木の裏に福岡藩第六代藩主継高公が寄進した一対の灯籠があります。古いため黒ずんでいて見にくいのですが、表面には「奉寄進(きしんたてまつる)」
裏面には
「筑前国主権少将源継高建立(ちくぜんのこくしゅごんのしょうしょうみなもとのつぐたかこんりゅう)」
と刻まれています。
筑前国主とは筑前一国の大大名であること、権少将は朝廷の官職、源は黒田家が近江出身の宇多源氏とされることによるものです。
あまり紹介されてはいませんが、直方と歴代藩主のつながりを示す貴重な文化財です。多賀神社にはもう一つ、殿町側の宝永の鳥居にも「黒田長清」と建立者が刻まれていて三百年の昔をしのぶことができます。
文 榊正澄
文化財に関する問合せ:文化・スポーツ推進課社会教育係
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