■其の百六
日本遺産の世界 in 筑紫野
武蔵寺(ぶぞうじ)と虎麿(とらまろ)伝説
天拝山麓にあり、多くの参拝客が訪れる武蔵寺には、古い歴史が伝わっています。
江戸時代初めごろに成立したといわれる『武蔵寺縁起絵図』では、藤原虎麿(ふじわらのとらまろ)が、薬師如来を祭るために武蔵寺を建立した様子や壬申の乱(672年)で活躍した様子が描かれています。
虎麿は藤原鎌足の子孫とされていますが、確かな記録が残っていないため、伝説上の人物と考えられています。ただ縁起の物語が描かれるにあたり、モデルとなる人物がいた可能性があります。一体それはどのような人物なのでしょうか。
古代寺院は、最先端技術や大陸伝来の高度な知識をもった僧が必要になるため、誰にでも造れるものではありませんでした。そのなか、飛鳥(現在の奈良県)で一大勢力を築いた蘇我氏は、早くから仏教の導入・振興や造寺に努めていました。その一族の一人、蘇我日向(そがのひむか)が飛鳥時代半ばごろに中央から派遣され、九州へやってきます。日向は、大化改新後の政権トップの一人である蘇我倉山田石川麻呂の弟であり、記録には孝徳天皇の病気回復を祈り、寺院を建てたことが記されています。
虎麿と日向はほぼ同じ時代の人物で、病気平癒(へいゆ)のための寺院を建てたという点が共通しています。また、日向の字(あざな)はムサシといわれており、武蔵寺の寺名との関係が想像されます。このように共通点が多いことから、日向が虎麿のモデルではないかと考えられています。
石川麻呂を兄に持つ日向も相当な有力者であり、その彼が当時の日本の中心地飛鳥からやってきたこと、この地に寺院を造ったことが人々の記憶に強く残り、虎麿の武蔵寺創建という形で語り継がれてきたのではないでしょうか。
問合せ:文化財課
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