第一四一回 修験の山 飯盛山(いいもりさん)
飯盛山(寒田)は標高四一〇メートルの円錐(えんすい)形の山(写真)です。城井谷を挟んで東側二・四キロメートルには標高七八二メートルの「求菩提(くぼて)山」を望むことができます。どちらも新生代前期(六六〇〇万年前)の火山噴火で誕生した山で、マグマが冷え固まった溶結凝灰岩(ぎょうかいがん)の露頭(ろとう)には風化作用で多くの洞窟や奇岩ができました。
こうした洞窟等を信仰の場に、求菩提山修験道が起こりました。修験道は厳しい修行を経てご利益を得るものです。飯盛山は養老年間(七一七―七二四)に求菩提山の開山者、行善和尚(ぎょうぜんおしょう)が神仏習合の神、小白山大行事を祭ったのが信仰の場としてのはじまりといわれます。
平安時代末期(康治元年・一一四二)荒廃した求菩提山を再興した頼厳上人(らいげんしょうにん)とともに銅板法華経(ほけきょう)を納経した勢実(せいじつ)和尚は、飯盛山に東光寺を創建し、小白山大行事を飯盛山大権現(だいごんげん)に改めました。以後、飯盛山は求菩提山六峯の第一峯(西方)に定められました。
春の峯入り(修験者が七十五日間、旧築城郡を廻郡(かいぐん)修行する)では、求菩提山護国寺を出発後、西の四至、鉾立峠(ほこたてとうげ)を通り、飯盛山東光寺を経て寒田村、岩丸村、小原村、椎田濱宮を巡りました。
しかし戦国時代になり、飯盛山の東側九百メートルに宇都宮氏が大平城を築くと、領域は縮小し、求菩提山六峯から外れました。春の峯入りも国見山経由で椎田濱宮をめざし、角田村、小山田村、本庄村を経て、寒田より乳呑坂(ちのみざか)(旧寒田小学校付近)を通る経路に変わりました。
天正年間(一五七三―一五九三)、飯盛山東光寺は兵火で焼失し、慶長十八年(一六一三)より求菩提山の西勝坊が別当(監督者)を務め、天保十年(一八三九)から北中坊が兼務しました。
元禄二年(一六八九)の『築城郡安武手永宮々并社司御改帳(ならびにしゃじおんあらためちょう)』(神家文書)には、飯盛山は「求菩提権現末社の飯盛権現」と書かれています。
明治時代になり政府の方針で神仏分離が行われ、岩戸見神社(伝法寺)の末社、飯盛神社となりました。
山の麓の下宮には寛政元年(一七八九)に奉納された十一面観音座像と弘法大師像が祭られ、神仏習合の頃の面影をうかがうことができます。
(文化財保護係 馬場克幸)
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