■ミシンと洋服温かさと思い出と(1)
昭和22(1947)年の新聞連載漫画にこんなエピソードが掲載されていました。
家計の足しにと「洋裁お仕立て致します」の看板をだす主人公。早速訪ねてくる客と思しき声。調子よく訪問客に対し「大繁盛で…」と伝えるも、客は「税務署のもので…」と冷や水を浴びせられる展開。
つまり、税務署が訪ねてくるくらい、洋裁は仕立て代を堂々と請求できる技能であり、女性の社会進出の枠が狭かった当時、家計に大きく寄与できる内職だったのです。
戦前の1920、30年代に洋服を着ていた女性はごく一部でしたが、戦中には、国民服や標準服と呼ばれる服を着ることが政府から強く奨励されます。ただ、実際に女性の目線で普及したのはモンペで、みんな自前で作っていました。
そして戦後になると布地の極端な不足とあいまって、欧米、とくにアメリカの文化が日本に入ってきて、空前の洋裁ブームが訪れます。
当時は、女性の半分くらいは洋裁をやっていたのではないかというほど、洋裁学校が次々にできて大人気となりました。容易に仕上げることができる直線断ちからおしゃれな服のパターンまで雑誌に掲載され、人気記事となり、やがてさまざまな分野を巻き込み「洋裁文化」を形成しました。
「洋裁文化とは、洋服をつくることを中心にして学校、雑誌、デザイナー、ファッションモデル、洋裁店、ファッションショーといった様々な事象から形成された、大衆を主役とした生産と消費の文化のことである。その文化は、1940年代の後半から1960年代の半ばにかけて、昭和でいえば20年代と30年代の昭和中期にかけて形成され、消滅していった」と物質文化史の専門家で武庫川女子大学井上准教授は規定しています。
第二次世界大戦後の日本で、大衆の日常着が和装から洋装へと切り替わっていくのと共に花開いた「洋裁文化」。技術がなくても作れる服から最新のファッション情報を伝える雑誌の歩み、ミシンの普及と洋裁学校の隆盛、身近な服飾の変遷などから、近年のアパレル産業の下地となった文化の実態を、身近な歴史として考えてみようと思います。
(芦屋歴史の里)
◇特別展「ミシンと洋服(温かさと思い出と)」開催告知
日時:令和6年2月6日(火)~5月6日(月)
場所:芦屋歴史の里
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