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芦屋歴史紀行 その三百四一

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福岡県芦屋町

今回から新人学芸員が、芦屋町の歴史を基本から探る不定期連載をお届けします。
初回は、「芦屋」の地名の由来を辿(たど)っていきます。

■「芦屋」という地名
「芦屋」という地名の意味は、「芦(植物)が生い茂り、芦葺(ぶ)き屋根の家が建っている場所」と考えられています。では、いつから「芦屋」と呼ばれはじめたのでしょうか。

■「あしや」の初出(しょしゅつ)
平安時代後期、源俊頼(みなもとのとしより)(1055~1129年)の私家集「散木竒歌集(さんぼくきかしゅう)」(1127~1128年ごろ成立)があります。
俊頼は、父経信(つねのぶ)が嘉保(かほう)2(1095)年に大宰権帥(だざいのごんのそち)(大宰府の長官)に任命されたことで、父とともに大宰府へ下向します。しかしその2年後の承徳(じょうとく)元(1097)年に父経信が大宰府で亡くなったため、俊頼は帰京することになりました。延喜式(えんぎしき)(平安時代中期に作られた法律の施行細則をまとめたもの)に「凡山陽、南海、西海道等府国、新任官人赴任者、皆取海路(西日本の役所に新しく任命された役人は全員海路を取る)」とあるように、俊頼も船で京へ戻ります。その途中で芦屋に泊まり、詠んだ和歌の中に「あしや」が登場します。

『あしやといふ所にて びわ法師のびわをひきけるをほのかにききてむかし思ひ出らるる事ありて
なかれくる ほどのしずくにびわのをと ひきあわせてもぬるるそでかな
濱にあみのみゆるをみてよめる
吹まよふ 風もとまらぬあみのめに いかでなみだのうかぶなるらん
雨ふりければ苦といふ物をふくをみてよめる
我袖に とま引かけよ 舟人よなみだのあめの 所せき身そ
よもすがら 思ひつづけてよめる
つくし舟 うらみとつみてもどるには あしやのねてもしらねをぞする』
(引用:散木竒歌集)

■漢字で記された「芦屋」
同じ平安時代後期、応保(おうほ)・長寛(ちょうかん)(1161~1165)年間に成立した「本朝無題詩(ほんちょうむだいし)」という漢詩集があります。その中に、「芦屋」が登場する釈蓮禅(しゃくれんぜん)の「著葦屋津有感(芦屋津に著(つ)きて感あり)」という漢詩があります。この詩は大治(だいじ)3(1128)年から天承(てんしょう)元(1131)年ごろ作られたと考えられ、「旅人をのせた舟が津に向かって、川を上下しながら集っている。川の両岸には東側も南側も、民家の屋根が重なって見える。土地の風俗で毎朝野菜を売っている。魚釣り船は夜どおし松明をたいていた。」という内容です。芦屋には多くの舟が集まり、川の両岸に民家が立ち並ぶ港町としてにぎわっていた様子が書かれています。

■芦屋の由来
芦屋町は、平安時代には「芦屋」と呼ばれていたことが分かりました。2つの文献から、平安時代の芦屋は、芦葺き屋根の民家が立ち並び、さまざまな人が集まるにぎやかな港町だったと考えられます。

(芦屋歴史の里)

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