おいしいものを食べてもらう。日当たりの良いところにある手入れされた桑園。太陽の光に照らされて、みどりに輝く肉厚な桑の葉。天然の桑を食べると「蚕(かいこ)」の育ちが良い。
かぜ通しを良くしてあげる。空調機器を使うわけではなく、換気をして風を通す。高温多湿にならないよう、また、低温になりすぎないよう手をかける。病気にならないように気をつける。ウイルスが「蚕」に来ないよう消石灰を床にまく。
いつでも見守っていてあげる。赤ちゃんのときには、小さくちぎった桑の葉しか食べられなかった「蚕」が、大きくなり、枝についた大きな桑の葉を食べるようになる。「蚕」は、自ら桑の葉を探しに旅に出ることはしない。だから「蚕」がいるところに桑の葉を運んであげる。まるで小さなこどもを育てる母親のように。
こどもだった「蚕」は大きくなり、やがて繭(まゆ)をつくる。大切に育て上げられた「蚕」は、繭に姿を変えて、旅立っていく。
様々なものを紡ぐために。時代も、地域の人も、そして、心も。
のどかな農村に広がる田んぼや畑。どこにでもあった風景の中に「蚕」の姿もありました。お米を作る傍らで、生活の一部として養蚕が営まれていました。
はるか昔、日本にもたらされた養蚕はこの地にも伝播し、平安時代、「蚕」の繭から紡いだ糸で織られた絹は、「安達絹」として都にも届けられました。「まゆみ紙」と呼ばれた和紙や「安達駒」と呼ばれた馬とともに二本松、安達地域を代表する産物となりました。
ながく続いた武家政治の時代には、中国大陸で生産された唐糸やポルトガル商船によってもたらされた生糸に押され、また、蚕飼育を奨励した信夫・伊達地方とは異なり、二本松藩は、夏蚕飼育は農作業の妨げになるという姿勢を崩さず、海外貿易による養蚕好景気の波に乗ることはありませんでした。
しかし、時代が明治を迎えた頃、二本松に製糸工場が稼働をはじめ、幾度か危機はあったものの、大正時代に製糸工場を営んでいだ双松館は、500人以上の職工を雇い、また、優良養蚕家として表彰される人も多く、最優等糸を生産する工場として、好景気とともに発展していきました。
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