■木幡(こはた)の幡祭(はたまつ)り(1)
木幡の幡祭りは、日本三大幡祭りの一つといわれ、約960年の歴史と伝統をもつお祭りです。白旗を先達(せんだつ)に、赤、青、黄、緑と、色とりどりの五反旗(ごたんばた)、百数十本が勢揃いし、法螺貝(ほらがい)を吹き鳴らしつつ木幡山の尾根を縦走します。
この祭りの由来は、前九年の役の天喜三年(1055年)にまで遡ります。後冷泉(ごれいぜい)天皇の命を受け、陸奥征伐(むつせいばつ)に出向いた源頼義(みなもとのよりよし)とその子八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)(源義家(みなもとのよしいえ))の率いる軍勢は、安達の川崎辺りでの戦いで、安倍貞任(あべのさだとう)、宗任(むねとう)兄弟に敗れ、わずか数騎で阿武隈川を越えて逃れてきました。その当時は「外木幡(そとこはた)」といったそうですが、今は「御所平(ごしょがだいら)」という所にある農家まで逃げて来て一夜の宿をとったのでした。
すると、その夜、天女が夢枕に現れ、「ここから東方一里ばかりにある弁財天宮(べんざいてんぐう)で祈願しなさい。そうすれぼ願いが叶うであろう。」と、お告げになりました。
源頼義(みなもとのよりよし)、八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)父子らは、さっそく、昔「いさずめ」と言っていた今の木幡山へ馳せ参じ、神社で戦勝を祈願しました。一方、安倍頼時(あべのよりとき)は、その子安倍貞任(あべのさだとう)、宗任(むねとう)兄弟を従え、伊達の信夫に陣を構えたのでした。そしてその軍勢が追いかけて来たといいます。今の「針道(はりみち)」のところから、「下馬(げんば)」という所まできたのだそうです。
その夜は、旧暦の11月18日のことといいますから、木幡山の大杉は北の方に枝がなくて、南の方にばかり枝が付いていたのですが、それにどっさりと雪が降り積もりました。
安倍兄弟は、敵を皆殺しにしてくれようと思って、勇んで攻めてきたのですが、下馬(げんば)の所へきて見てみると、源氏の白旗で山がいっぱいになり、軍勢が大勢いるかのように見間違えてしまったのです。目をむいて驚き、さしもの安倍貞任(あべのさだとう)、宗任(むねとう)も馬の手綱をぎゅっと引き締めたといいます。すると、馬がびっくりして、後退りしてしまったというので、今でもそこの場所を「至去(しさる)」というのだそうです。安倍の軍勢は戦わずして引き返してしまいました。
(12月号へ続く)
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