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【連載】昭和村の歴史と文化~第22回~

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福島県昭和村

菅家 博昭(大岐)

◆富山は帝国日本の拠点
山形県酒田市の松山文化伝承館で、8月23日から10月6日まで「山野に営むからむし・草木染金工・蜜蝋」が開催された。酒田市若浜町の「からむし工房あざみ」(今野志美子代表、会員15人)は、15年前に山形県内の関川の「しな織」、本村に見学に来られ独学で道具も繊維も作られた。かぎ針で編んで作品を作られている。
さて、『広報しょうわ』6月号で「越中福光麻布の現在」、8月号で「富山県のワレモコウ かぐや姫」、9月号で「富山の近代」について記述した。今回は、そのまとめとして文献等調査をした現在までわかっていることを記してみる。5月に訪問した富山県南砺市小院瀬見、堀宗夫さん、西井満理さんと立野脇集落を歩いて感じたことへの回答である。6月号で書いたことだが、カラムシの布への利用は早くに消失し、紐など生活用具に少量利用するだけになった社会的背景を調べた。夏は花き栽培の繁忙期のため調査にも時間的制約もあることをお断りしておく。
9月号で、砺波(となみ)郡郷土資料館の令和元年の企画展『砺波地方の麻と出町の麻問屋 神田商店』について紹介した。この展示会の図録を同館で購入し明治・大正・昭和の近代における富山地方の麻の産業や、中国大陸からの輸入、軍需産業との関連など具体的な数値を紹介した。
近代になり富山県がなぜ近代に早く国際流通拠点になったのかを考えた。
『岩波講座 近代日本と植民地(全8巻)』に続き発刊された『岩波講座 「帝国」日本の学知』(全8巻)の最終刊、第8巻に『空間形成と世界認識』(2006年、4800円)がある。そのなかに、大阪府立大学の水内俊雄氏が「近代日本の国土空間の生産をめぐる計画化思想とその実践 地方利益と都市利益の相克」(195~234ページ)の論文が掲載されている。今回はそれを参照としたい。
日本国内には47府県があるが、その最後47県目として、富山県が石川県から分離して独立したのは明治16年(1883年)である。明治19年は、会津藩であった福島県東蒲原郡(津川地区)が新潟県に編入されており、地方自治体の所属等が行われている。富山県はなぜ独立したのかその事由には河川改修費の県費負担の大きさがあった、としている。
富山県では、日本海側の海上・陸上の結節点的役割も果たし、十分の可住面積をもった平野と適度な人口に、空間的には似通った都市の均等な分布、そして豊かな水と発電で、開発の計画化と実践が行われた。近代の大戦までに大きな工場群が立ち並んだのは、帝国日本の植民地である中国・朝鮮に日本海を介して近距離にあった、という点がある。
特に水力発電の開発は1920年からはじまり、1934年には長野県を抜いて全国第一位の水力発電量となった。これを基にして、工業化が進み、工場労働者も4倍に伸び6万人。1942年の人口ひとりあたりの工業生産額は、神奈川、福岡、大阪、兵庫、東京に次いで第6位に富山県がなっている。生産額は9位。繊維工業が重工業に転換している。
1937年時点では、従業員が千人以上の工場は、繊維工場で、呉羽紡績の3工場、天満織物、第一ラミー紡績富山工場(1036人)となっている。ラミーはカラムシのことをいう。
1942年には、アルミニウム工場が林立し不二越鋼材工業は15000人、東亜麻工業富山ラミー工場(2049人)、東亜麻工業富山亜麻工場(1009人)と、繊維の加工…つまり軍需産業が大きな流れを作っている。
帝国日本の植民地・朝鮮人労働者を含め、富山県内の農山村地域から労働力が富山湾岸部の工場地帯に集住したことが記載されている。帝国日本のなかでは、早く近代化、つまり工場労働者となり、自給的な生活からは切り離されたと考えられる。
奥会津地域では昭和30年代にこうした給与を得る労働に転換していくが、富山県の場合は昭和初期からそのようになっていることがわかっている。

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