菅家 博昭(大岐)
◆越中福光麻布の現在(上)
5月13日・14日の二日間、富山県南砺市内に自生するカラムシ(苧)の調査を行う機会があった。小院瀬見(こいんぜみ)に暮らし、福光麻布の復元を行っている堀宗夫さん・西井満里さんらの依頼で、一緒に現地調査を行った。
同市小院瀬見と、小矢部川の対岸にある立野脇(たてのわき)のふたつの集落内に現存しているカラムシは5種類確認したが、生活に利用したと考えられる葉裏が緑色の品種はふたつあった。ひとつは昭和村と同じもの、もうひとつは葉裏緑で葉脈が赤色のものが混在していた。
特に、立野脇の家屋群に一株ずつやとわれている(意図して保存している)のは葉裏赤葉脈のカラムシが多かった。地区の人たちに聞くと、現住の皆さんはカラムシを利用した記憶は無く、祖父母の語りのなかでの利用が多かった
2年前の2022年5月31日の調査時後に、西井満理さんが小院瀬見の民家の屋根裏(天井)から、からはぎと思われる繊維束が確認された。昭和村では「からっぱぎ」と呼ぶ。外皮を茎と分離しただけで、利用していたことを示している。
西野さんによる聞き取り調査では、立野脇で昭和10年に生まれ、対岸の小院瀬見に嫁いだ女性は、次のように語っている。「戦時中は、子どもも女も小学校へカラムシを刈って持って行く時期があった。そのカラムシは村の田んぼの畦のものがなくなると、山へも刈りに行った。カラムシは葉をとり、茎だけにして乾かして持って行った。そのあとどうしたのか子どもだからわからない」
西野さんは10年ほどまえにも同じことを聞いており、その際には、「カラムシは、砺波(となみ)の工場へ行って南京袋にでもなったのだろう」と、お話しされていたという。
この方は5歳で父親を亡くし(山仕事で凍った杉の木がうまく倒れず挟まれたため)母と祖父母と姉弟4人で生計を立てた。家では母は田んぼをして、祖父母が麻(大麻)を育てて池に沈め、刈り草とむしろの中で蒸しては皮をはいでの仕事をするのを見ていた。麻は蚊帳にしていた。また、着物にもしていたかもしれない、という。
母の作った蚊帳は嫁入りに小院瀬見に持ってきたという。現在、福光麻布のギャラリーで保管している。
また、昭和18年生まれの男性で、小院瀬見育ちの方は、カラムシはとても丈夫なので、おばあさんがイズミ(腰に下げて山や畑へいく袋)やバンドリ(荷物を背負う時に荷があたらないよう体につけるもの)、ミノゴ(蓑)を編むときに、藁に必ず混ぜて使っていた。
麻の栽培は昭和30年代ころまで行われていたが、カラムシの利用は布の素材としてではなく、紐にしての利用があるだけで早くに消失している。戦時中は供出素材として土手等に自生化しているものを採取した。なぜそうなったのかを今回は富山県内・砺波市周辺での明治時代の歴史的経過を調査したので次回報告する。日本で最初の近代化が原因であった。
<この記事についてアンケートにご協力ください。>