古代から交通の要衝であった白河には、古代東山道(とうさんどう)や鎌倉時代の奥大道(おくたいどう)、江戸時代の奥州道中(おうしゅうどうちゅう)などの主要な道が通っていたことが歴史資料から分かっています。
古代東山道は、発掘調査で確認されていないため、場所の特定には至っていませんが、白河関が人や物資の往来を取り締まる検問所としての役割を果たしていたと考えられることから、周辺に東山道が通っていた可能性があります。
白坂にある白河南中学校の建設に伴う発掘調査では、鎌倉時代頃の道跡の存在が明らかになっています。道跡は幅5m、周囲には掘立柱建物跡(ほったてばしらたてものあと)・井戸跡などが見つかりました。
また、江戸時代初期の道跡が中世の道跡(本紙写真1)と重なるように見つかりました。道幅は約8mで、両端に幅約70cmの側溝が2条残っています。この道跡を東に向かうと、市指定史跡の石阿弥陀(いしあみだ)の一里塚(本紙写真2)が一対で残されています。道はこの塚の間を通っていたと考えられ、江戸時代初期の奥州道中と考えられます。
奥州道中は、その後丹羽長重(にわながしげ)による小峰城の改修に伴い、現在の国道294号のルートに付け替えたと考えられており、社会情勢の変化や地域拠点の移動に伴って道の位置も変更されていたことがうかがえます。
道は、人々や物資の移動だけでなく、情報の移動や軍事的な側面もあり、地域を考える上で重要な文化財です。
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