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市史編さんだより第14回

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群馬県桐生市

■「縄文のある弥生式土器」
『新編 桐生市史』編集委員 原始古代部会 専門委員 宮田毅(みやたつよし)
左の写真(本紙参照)は、新里町峯岸山で出土した弥生時代後期の壺形土器です。弥生土器にもかかわらず、器面の口縁から胴部上半にかけて縄文が施されています。弥生時代になっても、関東以北の土器には縄文土器の伝統が残り続けましたが、この土器は特に色濃く表したものと言え、「吉ヶ谷(よしがやつ)式」という土器型式名が付けられています。
吉ヶ谷式土器は、埼玉県北部の比企(ひき)丘陵地域で成立し、弥生時代後期後半に周辺地域から、赤城山南麓部にまで波及しました。
弥生時代中期後半から後期頃は、気候変動期にあたり、湿潤な天候が続き洪水が多発したと考えられています。そのため、埼玉県北部や群馬県南東部の低地帯(平野部)などでは、水田稲作を生産基盤としていた人々が、やむなく水田やムラを棄てて、新天地を求め移住し、弥生のムラが希薄な地域となりました。
移住者たちが辿り着いた新天地の一つが峯岸山の地だったのです。
吉ヶ谷式土器文化をもった人々は、はたしてこの地で水田稲作を行えたのでしょうか。彼らのムラは、現水田面との比高差が20メートルもある丘陵部にあります。水田稲作をするには不便で、水田可耕地も少なかったと思われます。したがって、彼らはコメに依存せず、畠作によるアワ・キビ・マメ類などの雑穀栽培や、クリ・ドングリなどの採集、狩猟・漁労などによって生活を支えていたと考えられます。まさに、縄文時代の食料生産と同じような生活だったと言えるかもしれません。

問い合わせ:市史編さん室
(【電話】47-7335)

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