■春王・安王の死 古河公方の誕生前史(下)
○公方の権威をとりもどす
先月の続き。「結城合戦絵詞(ゆうきかっせんえことば)」の物語は次のように展開します。
結城七郎氏朝(うじとも)は、鎌倉公方(くぼう)の戦死によって東日本における権力バランスが崩れて脅威に晒(さら)されつつある状況を打開するため、堅い警固で守られた居城(結城城)に譜代の御主鎌倉殿(おんあるじかまくらどの)の遺児をお迎えした。そのことは天下に隠れなきことゆえ京都の6代将軍足利義教(よしのり)は軍勢を差し向けた…。
4代鎌倉公方の足利持氏(もちうじ)は、この合戦の2年前(1438年)に発生した永享(えいきょう)の乱で、対立する京都の将軍足利義教の命により討伐されてしまいます。この鎌倉殿=鎌倉公方の敗死は、その権威によって保たれていた秩序の崩壊を意味しました。その結果、公方の配下にあるべき関東管領(かんれい)上杉氏の勢力が拡大し、各地でタガが外れたように押領(おうりょう)が頻発するという事態を招くことになります。
すなわち結城合戦とは、結城氏朝ら伝統的豪族層たちが、押領で所領を奪われる脅威に対抗するため、持氏遺児の春王丸・安王丸を奉じて、いわば旧来のパワーバランスを取り戻すための戦闘であったと言ってよいでしょう。
○新将軍足利義教と結城合戦
一方、同時期の京都も平穏とは言えぬ状況でした。6代将軍の地位が4年間も空位であったのです。5代将軍足利義量(よしかず)の早世後、すでに将軍を退いた身ながら、代理を務めた彼の父義持(よしもち)も後継者を指名せぬまま死去したため、新将軍は、出家していた義持の兄弟の中から籤引(くじび)きで決められました。こうして誕生したのが足利義教です。
そのため鎌倉の持氏は、義教を還俗将軍(げんぞくしょうぐん)と見下して、自らの血統に名分ありと京都の将軍になることを望んだのでした。その結果、新将軍と敵対することになった持氏は、永享の乱で戦死します。
かくして主と頼むべき鎌倉公方を奪われた関東の豪族たちは、持氏のわすれがたみを奉じて結城城を舞台に一年におよぶ籠城を続けることになりました。やがて兵糧も尽き果て敗北が濃厚となったとき、結城七郎は籠(こ)もる女房ら十余人の助命嘆願を敵方に頼み込みます。彼は、女子のように扮装(ふんそう)させた若君2人を女房衆と輿(こし)に乗せて落ち延びさせようと画策していたのでした。
○若君たちの運命と古河公方
はかなくもこの目論見(もくろみ)は失敗に終わります。寄せ手の軍(いくさ)奉行が、「此(この)女房こし(輿)の中にさためて若公御座あるへし、いけとり(生け捕り)にしたてまつりて高名せよや」と下知したため全ての輿が捜索されることになりました。
若君たちは、その優雅な所作・容姿がわざわいし、命運尽きて生け捕りにされてしまいます。
その様子を城中から見守っていた強者たちは「さては御うんめい(運命)つ(尽)き給ひけり」と、城外に討って出て勇猛に戦いましたが、武運つたなく残らず討ち死にしたのでした。生け捕られた春王丸・安王丸は、京都に送られる途中、美濃国垂井(たるい)(岐阜県垂井)というところで、将軍足利義教の命令により殺されています。
しかし、結城合戦後程なく足利義教が暗殺(嘉吉(かきつ)の乱)されて、関東では結城合戦を生き延びた万寿王丸(まんじゅおうまる)を鎌倉公方に擁立する運動が起こりました。東日本の安定に公方の存在は不可欠であったのです。かくして鎌倉に公方足利成氏(しげうじ)が御座することになりました。
そして、享徳4(1455)年、成氏は古河に拠点を移します。いわゆる古河公方の誕生ですが、その詳細は企画展「古河公方足利氏」にて、ご高覧くださるようお願いいたします。
古河歴史博物館学芸員 永用俊彦
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