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古河歴史見聞録

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茨城県古河市

■土井利勝 ~3代将軍家光を教え導く~
◇寛永の三輔‐徳川家光の家庭教師
新井白石の『藩翰譜(はんかんふ)』によれば、元和元(1615)年9月、徳川家康と秀忠は、後に3代将軍となる竹千代=徳川家光の傅役(もりやく)として酒井雅楽頭忠世(うたのかみただよ)・青山伯耆守(ほうきのかみ)忠俊・土井大炊頭(おおいのかみ)利勝を指名したとされています。「寛永の三輔(さんぽ)」と称されたこの3人の話は、江戸時代を通じて大いに流布しました。およそ180年後、12歳の鷹見忠常(泉石)も寛永三輔像を模写しています(10月12日(土)~11月24日(日)、古河歴史博物館にて公開予定)。

◇酒井雅楽頭忠世と青山伯耆守忠俊
ところでこの寛永三輔なる3人は、いずれも2代将軍徳川秀忠の年寄(としより)(後の老中(ろうじゅう))を務めていた幕府初期の重鎮で、それぞれ智・仁・勇を備える人物として徳川家光の師傅(しふ)に当たったとされます。
「仁」の担当は最年長者の酒井忠世(1572~1636年)。或(あ)る日のこと、家光に対面した忠世は、床(とこ)の間(ま)の刑部梨地印籠(ぎょうぶなしじいんろう)に目をとめます。刑部梨地とは、当時流行の漆工品(しっこうひん)で金箔・大粒の金銀粉末などを用いた高価な贅沢(ぜいたく)品、しかのみならず家光と男色(なんしょく)関係にある堀田正盛からの贈り物でした。赤面して身をよじるばかりの家光に、忠世は次のように諭(さと)します。かつて大御所(おおごしょ)家康は、茶宇縞(ちゃうしま)という高価な舶来絹布(はくらいけんぷ)の袴(はかま)姿の小性(こしょう)に対して「奢(おご)りを始めて乱の端を起こす不届き者」と立腹したと。その後、この印籠は忠世によって庭石に打ち棄(す)てられました。
青山忠俊(1578~1643年)は「勇」。忠俊は、若年の家光が「然(しか)るべからざる」言動をするときに成敗覚悟で諸肌(もろはだ)を脱ぎ脇指を出して「御心を直しなされ」と、幾たびも諫言(かんげん)したと伝えられています。
また、当時流行(はや)った伊達者(だてもの)よろしく合わせ鏡で髪を上げるおめかし中の家光に対し、憤怒の相の忠俊がその鏡を取りあげると庭へ棄てて戒めたという話もあり、不機嫌そうな家光の姿を垣間見ることができるでしょう。

◇智の大老 土井利勝
いささか煙たがられた両者に比して、土井大炊頭利勝は「智を以て諫いさめよ」という徳川秀忠のことばを実践し機知に富む対応を示します。酒井忠世と青山忠俊の諫言は、将軍を継ぐ立場の家光に必要なことでしたが、一方、若年ゆえに未熟な家光には耳障りであったに違いありません。
寛永三輔における土井利勝は、2人と入れ替わり家光の前に盃(さかずき)を持って現れ、くさくさする家光の気持ちをほぐしつつ「一杯の酒、一世の栄華」と酒の相手をはじめます。心のうちが晴れていく家光の様子を確認しながら、利勝は忠世や忠俊の忠言を「尤(もっと)も至極」としてとりなしました。やがて家光は、利勝のこうしたアシストによって両者の諫言を受け入れることになります。
土井利勝は、江戸初期の組織や制度が未整備であった幕府草創期に欠くことのできぬ存在でした。それゆえに多くの大名は、迅速で的確な判断と正確で有益な情報を与えてくれる利勝を頼りに将軍への「取次」を求めています。「弥(いよいよ)大炊殿一人にて」というとおり、この時代の幕府政治は、利勝の意向で決まるというほど彼に権力が集中していました。
特定の人物に権限が集まりやすい反面、いわゆる宇都宮城釣り天井事件の本多正純はじめ、権勢をふるった大名でも瞬時に失脚することも少なくなく、寛永三輔の酒井・青山両人でさえも後に家光政権から遠ざけられています。
そうした時代背景にあって土井利勝は、2代将軍徳川秀忠をして家光に「天下と共に利勝を譲る」といわしめるほどの実力者であり続け、寛永15(1638)年に大老に就任するなど、その高い信頼が失われることはありませんでした。
12歳の鷹見忠常少年は、権力に奢らず公明正大でバランスを重視した土井利勝に政(まつりごと)の理想を見いだし、心の教科書として寛永三輔を謹写したのでしょう。

古河歴史博物館学芸員 永用俊彦

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