■人面に見える縄文時代中期の土器-下吉影石川西(いしかわにし)遺跡-
◇掘り出された縄文時代の集落跡
石川西遺跡は、小美玉市下吉影字石川に位置し、巴川の支流に面する標高20~32mの台地上に所在しています。その場所は、茨城空港テクノパーク(工業団地)予定地であり、平成18年に発掘調査が行われました。
その結果、縄文時代中期の集落跡が発見されました。確認された遺構(いこう)は、竪穴住居跡15軒、土坑(どこう)87基などです。調査区は遺跡の北端部だったので、集落は南側に広がっていると考えられます。住居跡や土坑は、すべて今から約4400年前の縄文時代中期のものです。
◇縄文時代の住まいと袋状土抗
当時の住まいは、平面形4~6mほどの円形で、地面を60cmぐらい掘りくぼめた竪穴住居です。当遺跡では、床のほぼ中央に礫(れき)を使用した楕円形の炉がありました。炉は食物を煮炊きしたり、明るさや暖をとったりするためのものです。床の周りには柱穴があり、柱を立て屋根を葺(ふ)き下ろしていたと思われます。
竪穴住居の周りには、数十基の袋状土坑が確認されています。入口が狭く、底面が広いことから袋状土坑やフラスコ形土坑と呼ばれています。形態からクリ、クルミ、トチの実などの木の実を保存する施設で、冬季に備えての貯蔵穴と考えられています。
◇人面に見える中期の土器
左の写真は当遺跡の袋状土坑から出土した深鉢です。中空の把手(とって)が、目、口を表し、まるで人面のようです。この時期の土器は、隆帯と呼ばれる粘土の紐を貼った文様で把手や渦巻文を大胆に表現し、迫力があります。加曽利(かそり)E式土器といわれるもので、関東地方一帯に分布しています。
市内の縄文時代の遺跡で、一番数が多い時期は、中期です。気候が温暖で当時は海であった霞ケ浦、森であった台地、川や池の低地にはいたるところに動植物が豊富だったので、遺跡数も多いのでしょう。
◇生活のための道具
そのほか、石器ではドングリなどからデンプンを作るための石皿、磨石(すりいし)、木を切るための磨製石斧(せきふ)、土を掘るための打製石斧、まつりに使用されたとされている石棒、狩りのための鏃(やじり)などが出土しました。
土製品では、網の錘(おもり)とする土器片錘も多く出土しました。池や川などで網を利用した漁(りょう)が行われていたのでしょう。
(市文化財保護審議員 海老澤稔)
○語句解説
遺構:人が生活のために地山を加工した構造物。竪穴住居、貯蔵穴、溝など。
土抗:貯蔵穴や墓坑など、地面を掘った1~3mぐらいの穴。
加曽利E式土器:千葉市加曽利貝塚E地点から出土した土器を標識とする縄文時代中期の土器型式。中空把手などが特徴。
※写真提供(公財)茨城県教育財団
問い合わせ:生涯学習センターコスモス
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