鎌倉時代、東アジアからヨーロッパに至る史上最大の領土を持った元が、日本へ向け兵を送りました。大陸に近い対馬にも大軍が押し寄せ、戦った武士だけでなく、多くの島民が命を落としたと言われています。1度目の侵攻「文永の役」から750年、対馬に残る当時の痕跡や次世代に歴史を伝えていく取り組みなどを紹介します。
■世界の歴史が大きく動いた時代、その時対馬は…
750年前、日本だけでなく、世界の歴史が大きく動いていました。国境の島である対馬は、いやが応でもその歴史の渦に巻き込まれていきました。
▽交易のために日本を目指す
モンゴル帝国は、周辺国を征服することで交易の共通ルールを敷き、国を拡大させていました。朝鮮半島も例外ではなく、6回にわたる侵攻の末、1258年には高麗が属国になります。1260年に第5代皇帝となったフビライ・ハンは、国の名前を「元(げん)」と改め、世界最大の領土を持つ国を建国します。
フビライは、高麗の先にある日本が、金や銀が溢れている「黄金の国(ジパング)」であると聞いたことから、日本を征服し、属国にしようと考えたといわれています。
▽再三日本へ使節を送る元
元は、日本と交流のある高麗の案内で使節を送ります。その対応にあたったのは対馬の人たちでした。1267年に対馬に使節が来島した際には、対馬守護代が大宰府に知らせ、そこから鎌倉幕府へと伝わります。翌1268年には、高麗の使節が大宰府を訪れ、元の国書を日本側へ渡します。従属を前提とした友好関係を求め、武力によって自分たちに従わせることをにおわせた国書に、朝廷は鎌倉幕府の意向に沿って国書の返事を出すことはなく、両国は戦いへの準備を進めることになります。
▽ついに出航、対馬は戦場に
使節や国書を拒否された元は、属国である高麗に1万人の兵の用意と1000艘の船を作ることを命じ、日本へ出兵する準備を行いました。日本でも、鎌倉幕府が西海の守護たちに戦いへの備えを命じています。5回の使節を派遣したものの日本から拒否された元は、日本へ攻め入ることを決め、1274年の夏に朝鮮半島の合浦(がっぽ)に集まった元軍2万と高麗軍1万の軍勢は、900艘あまりの船に乗り、旧暦10月3日に出航、5日の夕方に佐須浦の沖に到着します。
▽守護代 宗資国(そうすけくに)、一所懸命に対馬を守る
対馬の守護であった少弐氏(しょうにし)の守護代として対馬に渡った惟宗氏(これむねし)は、武士化して宗を名乗るようになります。宗資国は、大船団発見の情報を受けると、大宰府への使いを送るとともに、自身をはじめ80騎ほどの家来を従えて、佐須へと山道を越えていきます。
『八幡宮愚童記』によると、夜明けとともに上陸した元軍と対峙した資国以下武士たちは攻め入る元軍と勇猛果敢に戦い、多くの敵を倒します。しかし、しばらくすると刀が折れ、矢が尽き、次から次へと襲ってくる元の兵士に全員が討ち取られてしまいます。戦闘の激しさのためか、資国の亡骸(なきがら)は、首や胴などが別々に埋葬されたとされ、佐須地区内に塚が残されています。文永の役から80年余り後には、島や島に生きる人たちを守るために命を懸けて戦った資国らを祀る師大明神(いくさだいみょうじん)(現在の小茂田浜神社)が建立され、現在に至ります。
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