◆神近 市子(かみちか いちこ)
◇誕生から学生生活
神近家は先祖代々、小樽郷に住んでいた大村藩士の家系で、江戸時代は大村藩と佐賀藩武雄領の境目・仏坂(ほとけざか)の警備と砥石山の運上(税金)を取り立てる仕事をしていました。市子の父・神近養斎の従兄弟・神近長左衛門吉光は謹厳実直な役人で、幕末維新に活躍した大村藩士・渡辺昇(のぼり)にも直言できるほどの人物でした。
明治時代になって、市子の父・養斎は宿郷鹿山の医師・本田同俊の書生として修業し医師となり、招かれて佐々村(佐々町)へ移住しました。
市子は、養斎の三女として明治21年(1888)6月6日に佐々村で生まれましたが、3歳の時に父を、つづいて長兄を失い、家は貧しく小樽郷の叔母コノに預けられ、内海小学校(波佐見町立東小学校)の2年生まで波佐見村で育ちました。
その後、佐々村で小学校を終えた後、向学心にあふれた市子は親戚の援助で長崎の活水女学校(活水学院)から東京の津田英学塾(津田塾大学)へ進学しました。
◇文筆家から教育者へ
市子は在学中に学費を稼ぎつつ文筆業を志し、新聞『萬朝報(よろずちょうほう)』の懸賞小説に入選し、また女性の権利獲得や地位向上を訴えた社会運動家・平塚らいてうが設立した青鞜社の女流文芸思想雑誌『青踏』の編集に参加し、作品を投稿しました。市子は大正2年(1913)3月、24歳で津田英学塾を卒業し、青森県立弘前高等女学校(青森県立弘前中央高等学校)の教師となりましたが、当時、珍しかった女性の権利獲得や地位向上を訴え、「新しい女」として世を騒がさせていた青踏社との関係を糾弾され、教師を退職しました。
◇ジャーナリストとして
市子は大正3年(1914)に東京日日新聞社(毎日新聞社)に入社して婦人記者の草分けとして活躍しました。市子はこのころから社会主義思想に接近し、堀保子という妻がおり、自由恋愛を唱えていた社会運動家・大杉栄と恋愛し、さらに大杉のもう一人の恋人で社会運動家・伊藤野枝と愛を争って、大正5年(1916)11月に大杉を刺して負傷させる「葉山日蔭茶屋事件」を起こし、大杉傷害の罪で2年の刑を受け、世の中を驚かせました。市子は大正8年(1919)に出獄後、文筆生活を送り、翌年には結婚して3人の子を出産しましたが、後に離婚しました。市子は昭和3年(1928)に『女人芸術』、昭和10年(1935)に『婦人文芸』創刊に参加しました。
◇波佐見ゆかりの初の衆議院議員(代議士)、そして終焉
太平洋戦争後の昭和29年(1954)、市子は65歳の時に、東京5区から日本社会党所属で衆議院議員選挙に出馬し当選、1回の落選をはさんで、81歳で引退するまで、波佐見ゆかりの初めての代議士として4期を務め、売春防止法の制定などで活躍して日本女性の地位向上や社会進出に力を尽くしました。市子は昭和45年(1970)秋の叙勲で勲二等瑞宝章を受章、昭和56年(1981)8月1日に東京都の自宅で93歳の天寿を全うし同日、従四位に叙せられました。
市子の著訳書は『女性思想史』、『アメリカ史物語』、『社会悪と反撥』など多数あります。
市子は、幼少期を過ごした小樽郷へ神近家の墓参りのたびに訪れ、同級生や知人との親交を深め、その時の写真は小樽郷改善センター内で今も見ることができます。なお、市子の東京都在住時代に考え方の違いを超えて、同じ波佐見人として活動の支援をしたのが、今里酒造(宿郷)の4男として誕生し、戦後の日本経済を復興した今里廣記でした。
学芸員 盛山 隆行
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