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■今年の平和祈念式典で中止になった城山小学校に通う児童の合唱の映像を市役所で見られると聞きました。(岩見町・40代のかた)
◆市庁舎の大型ディスプレイで放映し、その後ホームページで公開します。
今年の平和祈念式典で実施予定だった子どもたちによる合唱や演奏は台風の影響で中止になりました。そこで、子どもたちが合唱や演奏をしている様子を動画で撮影し、市庁舎の大型ディスプレイで庁舎前広場に向けて放映しています。
放映は午前11時2分から5分程度です。今後の放映スケジュールは次のとおりです。
子どもたちの平和への思いが詰まった合唱や演奏をぜひご覧ください。
放映した動画は、大型ディスプレイでの放映が終了したら、「ながさきの平和」ホームページへ掲載します。
問合せ:調査課
【電話】829-1147
■音楽で平和を訴えた被爆作曲家・木野普見雄
今回放映した「子らのみ魂よ」、そして来年の平和祈念式典で山里小学校の児童が合唱する「あの子」。どちらも同じ人物が作曲したものだとご存じでしょうか。
作曲者は、市の職員だった木野普見雄さん。妻と2人の子どもと城山町に暮らしていました。
原爆が投下された時、木野さんは市役所にいて、深夜まで近辺の消火活動に当たり、その後、自宅へ向かいました。家族はどこかの防空壕にでも避難しているに違いないと念じながら歩きました。午前3時頃に帰りついたものの自宅は倒壊し、がれきも火災の熱で触れず、家族の手掛かりはありませんでした。
11日、自宅跡のがれきの下から妻と子ども2人の遺体を掘り起こしました。木野さんは愛する家族の遺骨をそうめんの箱に丁寧に詰め、強く抱きしめました。
木野さんは「湧き流れる涙、つきせぬ涙をどうすることもできない、憤り悲しみ、複雑した感情が心の底から爆発」したと当時の気持ちを書いています。
「原爆の惨禍を忘れてはならない。戦争を再びやってはならない。」そのために自身の被爆体験や原爆の生々しい実相を伝える必要があると思いました。
木野さんはその手段として、音楽を選びました。歌曲に共感してもらえれば平和への布石になるのではないかと考え、作ったのが「あの子」や「子らのみ魂よ」です。発表時には、聴衆からすすり泣く声が聞こえ、目頭を押さえる人も多かったそうです。
「原爆と取り組まなくては生きた甲斐(かい)がない」と語った木野さんは、その後も市役所に勤務しながら原爆や平和をテーマに作曲を続け、原爆症のため昭和45年に62歳で亡くなりました。
参考:「原子野のうた声 被爆作曲家の手記」木野普見雄/著 長崎国際文化協会
※詳しくは本紙をご覧ください。
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