溝の原はその南に入相沢の沢が開け、これを併せて溝の原と云っている。小海町は殆どの集落が傾斜地かすぐ近くに小山が有ったりするが、溝の原は町の中で数少ない比較的平坦地で廻りの山々もなだらかな集落である。
以前、此処は佐久町から川西南側地区の『入会地』で主に採草地として使われていた。関係七か村(下畑、中畑、上畑、馬越、本間、宮下、本間川)で入植者を募り、最初の入植者は茅葺の屋根の下で粟を主食に始まった。慶応三年(一八六七)茨沢川の水を『八町河原』から揚水し、此の用水路として本間川村へ一両二分をだしている。水路の延長は六キロに及び水路の地代として八那池村外へ拾両を払っている。
支払いのお金は明治元年四月『御影役所』より金弐千百円を借りて五カ年で入植者の負担で返す様取り決めている。用地の取得、用水の取り入れなど様々な交渉を経て『溝の原』の開発が順調に進められた。
昭和二十二年終戦直後の尤も食糧難の時代に旧北牧村では、四番目に多い五十四石(八千百キロ)の米を出している。
昭和三十年代に溝の原は米の販売量が一人百俵(六トン)を越える人が現れ、米の販売量が小海町の首位となった。また長野県中の高冷地で栽培する水稲の種子を此処で生産する様にもなり、溝の原は小海町の穀蔵に相応しい集落となった。しかし、現在の溝の原は三十八戸六十六人で典型的な過疎の集落に近づいている。
町志中世編纂委員 宿岩善人
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