4道県の17遺跡で構成される「北海道・北東北の縄文遺跡群」が令和3年7月に世界遺産に登録されてから3年。青森市にある構成遺産は、縄文時代前期~中期(約5,900~4,200年前)の「三内丸山遺跡」と、縄文時代後期前半(約4,000年前)の「小牧野遺跡」の二つですが、両遺跡は時代も様相も全く異なります。
今回は小牧野遺跡の謎に迫りながら、「面白かわいい」小牧野ならではの縄文グッズも紹介します。
紀元前13,000年
↓ 居住地の形成
紀元前7,000年
↓ 集落の成立
紀元前5,000年
↓ 集落施設の多様化
紀元前3,000年
↓ 拠点集落の出現
紀元前2,000年
↓ 共同の祭祀場と墓地の進出
紀元前1,500年
↓ 祭祀場と墓地の分離
※図など詳細は、本紙またはPDF版をご覧ください。
■Q.そもそも環状列石(ストーンサークル)って何?
円環状に石を並べた構築物で、直径10メートルを超えるような大型のものが環状列石と呼ばれています。小牧野遺跡は三重の輪に加え、一部四重となる列石もあり、全体で直径55メートルと国内最大級です。
小牧野遺跡の場合、周辺の複数の集落から多くの人々が集まり、祭りや儀式を行う目的で造られたと思われますが、結果的には集団間の結束を強める役割を果たしています。
■Q.ズバリ!見どころを教えてください!
国内には東日本に環状列石が数多く分布していますが、縦横交互に石が並び、土地造成による高低差を利用して立体的に造っているのは恐らく小牧野遺跡だけ。ほかの遺跡は基本的には平面状です。大勢の縄文人たちにより、斜面を削り取るなどの土地造成や多量の川原石を並べている状況がよくわかる環状列石です。
(環状列石の内側に立つと、まるで円形劇場のような美しさと壮観さに圧倒されるよ。)
■Q.三内丸山と小牧野、ふたつの遺跡の違いは何?
▽大きい集落で過ごせていた三内丸山時代
ポイント1:三内丸山遺跡は、竪穴(たてあな)建物跡などの住居や掘立柱(ほったてばしら)建物跡、墓、(食べ物の残りかすや壊れた土器などを廃棄した)捨て場などから構成される大規模な集落跡。一つの大きな「ムラ」として人々の生活が営まれていました。
▽だんだん寒くなって、小さい集落に分散した小牧野時代
ポイント2:縄文時代後期になると地球の寒冷化が進み、食糧の確保に影響を与えるようになりました。そこでムラを小さな集落に分散して、環境に適応しなければなりませんでした。その時代に造られたのが小牧野遺跡の環状列石です。
▽周辺の集落の人々が集う祭祀(し)場「小牧野遺跡」
ポイント3:分散した集落の人々が一堂に集う場所として、小牧野遺跡のような環状列石が生まれました。環状列石を造るとき、またはお祭りを行う際に人々が集まってきたと思われます。
■Q.小牧野環状列石はどうやって造られた?
標高140メートル付近の台地上に位置する小牧野遺跡は、もともと緩やかな斜面でした。縄文人たちはその斜面を削って平らにして、台地の下を流れる堤川上流の荒川から約2,900個もの川原石を様々な方法で運んだと考えられます。
小牧野遺跡の環状列石は、楕円形の石を縦に置き、その両隣に平らな石を横に積み重ね、これを繰り返して輪が造られました。この石垣のような並べ方は「、小牧野式配列」と呼ばれています。
全国でも珍しい!?小牧野式配列
斜面を削って下に盛ると…平らな広い空間ができる
■Q.小牧野には、2タイプのお墓がある?
お墓は土葬用の「土坑墓(どこうぼ)」が100基以上、環状列石に隣接する東側緩斜面一帯に分布しています。4基発見されている「土器棺墓」は、埋葬などにより、白骨化した骨を取り出し、その人骨を土器棺に納めて再び埋葬する施設です。
土器棺墓は環状列石の中から見付かったことから、環状列石を作る際の指導者や地域の権力者などが埋葬された可能性があります。
▽[縄文の学び舎・小牧野館]子どもが楽しめる!さわって遊べる体験コーナー
・発掘にチャレンジ! 発掘調査体験コーナー
・環状列石を作ってみよう! 環状列石組立コーナー
・縄文人の暮らしを感じてみよう! 木の実と住居のコーナー
・土器の修復を疑似体験!? 土器復元コーナー
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