■《特集》新春対談 ウーブン·バイ·トヨタ(株)CEO 隈部(くまべ)肇(はじめ)×裾野市長 村田悠(はるかぜ)
新春号第2弾の対談は、令和5年10月1日にウーブン・バイ・トヨタ(株)のCEO(最高経営責任者)に就任された隈部氏と、「未来のすその」について語りました。
裾野市に未来を創っていく立場にあるお二人が、どういったところを目指しているのか、その思いなどについて話しました。
ウーブン・バイ・トヨタ(株)は、トヨタ自動車(株)の子会社であり、ソフトウエアを中心にモビリティに関する技術や事業を開発しています。
◆歴史と未来を共につくる
コーディネーター:ウーブン・シティの建設が進む中、改めてウーブン・シティはどういう経緯でつくられることになったのか、市民の皆さんに向けてお聞かせください。
隈部:裾野市の皆さんにはいつもお世話になっております。トヨタグループと裾野市の皆さんとの関わりでいきますと、裾野市の皆さんの大切な場所を譲り受け、1966年に自動車性能試験場(後の東富士研究所)を、その後、1967年に乗用車組立工場(後の東富士工場)を作らせていただきました。それ以来50年以上、裾野市の皆さんのご協力をいただきながら、いいクルマをつくってそれを世界中にお届けしてきました。2011年の東日本大震災で、東北が大きなダメージを受けた中、長期的に東北の復興を支えたい、東北の皆さんのお役に立ちたいという思いがあり、2018年には東富士の生産を東北に移転するということを決めました。その中で、東富士工場の従業員から、東北には行けない仲間もいるという話を聞き、当時のトヨタ自動車(株)社長の豊田章男が、この跡地に未来につながるまちの形をしたテストコースを作り、モビリティカンパニーの基になるような技術をどんどん生み出していくという構想を話したのが最初です。
コーディネーター:市長は生まれも育ちも裾野市で、子どもの時は東富士工場の印象をどのようにお持ちでしたか。
市長:私は友達と一緒に社宅のプールへ遊びに行った思い出があります。企業やそこで働く皆さん、家族が地域に丸ごと溶け込んでいました。そういう意味では、思い入れの強い東富士工場です。工場撤退の話を聞いたときは、まだ私の周囲にも関係者が多かったので東北に行かなければいけないとか、友人が東北に行くという話を聞いて、とても寂しい気持ちになりました。けれども今、隈部CEOから言っていただいた、“将来につながるモビリティカンパニーをつくるための礎となるべくテストコース”ということで発表されたときは、この地が未来のために何かできるとするならば、裾野という土地はすごいものになるなと感じました。
コーディネーター:隈部CEOは、ウーブン・シティ建設の発表をどのようにご覧になられていましたか。
隈部:まず、やはりトヨタがモビリティカンパニーになるということの決意の一つがウーブン・シティだと。市長がおっしゃるように、50年以上にわたり裾野でいいクルマをつくって世界に届けてきて、次の50年やはりこの裾野という地で、未来に繋がる新たな技術を生み出し、モビリティカンパニーへと変革していく。これはすごいことなので、トヨタグループの一員として、とても誇れる取り組みだと感じていました。
◆ウーブン・バイ・トヨタ 隈部CEO就任
コーディネーター:そのような中で令和5年の10月にウーブン・バイ・トヨタのCEOにご就任されました。その打診を受けたときはどのようなお気持ちでしたか。
隈部:打診を受けたというよりも、命を受けたというほうが正しいですね。そのとき思ったのは、ずっと長い間トヨタグループの一員として働いてきて、地域に貢献する、地球に貢献する、世界中の人に貢献する、その最前線に立てるなと思いました。大変だなという思いもありましたけれども、それ以上にわくわくしました。皆さんもご存じのように、クルマは今大変革の真っただ中で、今後、クルマの価値を高めていく一つの要素としてソフトウエアが非常に重要なものだと思っています。ソフトウエアに注力するということは、非常に多くの人が必要です。いかにソフトウエアを効率的に開発するか、これが自動車産業、そしてモビリティ産業の競争力の大事な部分になると思っています。ウーブン・シティでは、当然のようにソフトウエアで新しい価値を生み出すこともやりますし、その価値を生み出すためのプラットフォーム、そういう土台になる部分もしっかりつくる、その両方をしっかりやるということだと考えます。
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