■長沢鼎 Vol.5「忍耐と度胸」
1906年(明治39年)、長沢の父親的存在であったハリスが他界します。
財産を継承した長沢は、さらにブドウ園を開拓し事業を拡大します。長沢のワインは、全米はもとより欧州や日本にまで輸出されるようになり、数々の賞を受賞して大きな評価を受けます。薩摩藩英国留学生記念館には、長沢が所有していたカトラリーセットが展示されています。細かな装飾から欧州より輸入された高級品とみられ、長沢の暮らしぶりや栄華が想像できる貴重な資料です。
しかし、長沢の事業成功の裏側には幾多の試練がありました。1905年(明治38年)、害虫フィロキセラが蔓延し、500エーカーのブドウ園が全滅、事業の生命線が絶たれます。残された道は破産宣告するか、土地を売却して廃業するしかありませんでした。しかし、長沢は再起に賭ける道を選びます。5万本のブドウの木を全て処分。土壌改良を行い、新しい苗をフランスから取り寄せ、アメリカ原生種のブドウの台木に接ぎ木作業を行いました。
同年4月、サンフランシスコ地震が起こると、震源地に近いサンタローザでも大きな被害を受けます。その後、納屋や住居の全焼など度重なる試練が訪れました。この頃になると、長沢が鹿児島から呼び寄せた甥の伊地知共喜が長沢の片腕として農作業を指示する立場にいました。待ち望んでいたブドウの収穫期を迎えると、新たに200人を雇いました。こうして、ブドウ園全滅という最悪の危機を乗り越えたのです。
1913年(大正2年)、再起への見通しがたった61歳の長沢は16年ぶりに鹿児島に帰郷します。鹿児島新聞から取材を受けた長沢は、「成功の鍵は」という問いに対して「忍耐と度胸」という言葉を残します。長年の経験からくる経営に対する信条と自信の現れでした。
薩摩藩英国留学生記念館スタッフ 南川浩幸
参考文献:渡辺正清『評伝 長沢鼎 カリフォルニア・ワインに生きた薩摩の士』南日本新聞開発センター(2013年)
薩摩藩英国留学生記念館
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