■垂水の「田の神さぁ」
○「田の神さぁ」にすがる思い
島津氏が治めていた三州(薩摩、大隅、日向)には、今でも田畑の畦などに「田の神さぁ」が鎮座しています。「田の神さぁ」は豊饒の神様であり、農民たちの農作物、特に米が豊かに実るようにとの願いが込められています。
往古よりの火山噴出物に覆われた薩摩藩では、米の生産は並大抵の苦労ではありませんでした。
徳川時代に入ると、貨幣経済の波に飲み込まれ、財政基盤である主要作物の米を増産することが至上命題となってくるのです。そのため、垂水島津家も約50年かけて、寛保元(1741)年には「よめじょ川」用水を完成し、約200haの水田を開発しました。
さらに、薩摩藩は、農民には門割制度により連帯責任を負わせ、厳しく年貢の納付や公役(労務提供)を行わせました。このような背景から作物、特に米の出来、不出来はとりもなおさず、農民にとっては生命に関わる問題でした。栽培技術が現在ほど進んでいない当時、風水害や虫害など自分たちの力の及ばないものに対して「田の神さぁ」にすがったことは容易に想像できます。
○垂水にある「田の神さぁ」
「田の神さぁ」は、旧薩摩藩領内で約1800体以上あるとされています。垂水には新城の神貫神社境内のものから牛根の深港まで計14体があり、一番新しいのは水之上の平成の「田の神さぁ」です。
原田の「田の神さぁ」の台座には「天明二壬寅十一月吉日」と刻まれていますが、桜島の安永大噴火の3年後です。時の垂水領主・島津貴澄はその漢詩に「山川は旧里に迷い田野は荒台に接す」と、火山灰を含んだ泥流や土石流の被害を記しています。農地の復旧途上であることを思うと、この「田の神さぁ」に託した人々の願いが痛いほど伝わってきます。
脇登の「田の神さぁ」の農夫型の頭頂部や顔面は激しく傷ついています。地域の方々には「おねっ(百日咳のこと)の神さぁ」としても位置付けられており、昔は子どもが百日咳にかかると、火吹き竹を供えつつ、「田の神さぁ」の頭をこんこん叩いて回復を祈ったということです。
野久妻の鎮守神社拝殿にある「とっかぶいさぁ」は、自然石に藁苞(わらづと)をかぶせてあり、「田の神さぁ」の原型との説もあります。
身近にある「田の神さぁ」は、農作物の豊饒祈願はもちろん、地域によっては子孫繁栄、家内安全、亡くなった子どもの供養、病気退散など、当時の人々の力ではどうにもならないものを背負っているようです。
▽参考資料
『鹿児島県の歴史(山川出出版)』(2011年3月30日発行)
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