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【特集】語り継ぐ~戦後 79 年~

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鹿児島県 志布志市

1945年(昭和20年)8月15日。終戦の日。
毎年、8月になると、戦争の記憶を風化させまいと空襲の様子や原爆投下、終戦に関する報道が放送されています。今年で戦後79年。
戦争を経験された方々は歳を重ね、自身の経験を語ることができる方は、年々減少しています。
戦争の最中、ここ志布志はどのような状況だったか。それは当時を経験した方々の記録、記憶からでしか知ることはできません。
今回は、今後、戦争を知らない世代に平和のために何ができるかを考えていただきたく、戦争を「語り継ぐ」ことをテーマとしています。
今回、この特集記事を作成するにあたって、市報しぶし令和6年6月号と7月号の読者プレゼント企画の応募時のアンケートにて、「戦争に関して皆さんがご家族や地域の方々から受け継いだ「記憶」や「記録」がありましたら教えてください。」という設問を設けたところ、両号あわせて、100件を超える回答を頂きました。ここで一部回答について紹介します。

【アンケート回答】
・祖父母は戦争を経験しており、生前色々と話を聞かせてもらいました。食べ物も十分になく、警報が鳴るたびに怖い思いをしたとのこと。

・戦時中、祖父は学生でしたが、郵便局に勤めることを目指し、モールス信号などの勉強もしていたみたいです。

・戦時中の志布志の様子を祖母がたまに話していたのですが、当時はあまり関心がなく、ゆっくり話を聞いてあげることができませんでした。今の平和が私たちの子、孫、さらに次の世代へと永久に続きますように。

・祖母が戦争を経験しており、今でも涙を流しながら話をしてくれます。大隅の月野で小学生の時に登校中に攻撃を受け、友人が目の前で亡くなった。道は死体だらけだった。命をかけて学校に通っていた、と。幼いひ孫さえ真剣に話を聞いていて、戦争は不幸せという思いが伝わります。夏になると話をしてくれます。

・身近な人から聞いた話は記憶に残る。当時の食べ物の話や家の周辺も米軍の飛行機が飛んでいたという話は覚えている。

・去年亡くなった母方の祖父の戦争体験が新聞記事になったことがあります。生前、祖父は戦争は誰にとっても良いことはないと言っていたことは忘れません。

このように戦争について話を聞いたことがある方々がいる一方で、半数近い方は、
「戦争について特に話を聞いたことはありません」
「関連して話せることがなくてすみません」
と、戦争に関して受け継いだ「記憶」や「記録」は「ない」との回答を頂きました。
では、戦時中、この志布志の地はどのような状況だったのでしょうか。次のページでは、戦時中の志布志の紹介、その後は、戦争を「語り継ぐ」活動をされている方々を紹介します。

■オリンピック作戦への備え
1941年、太平洋戦争が始まり、破竹の勢いで勢力を広げていった日本ですが1944年頃になると、戦況は次第に不利になり、迫る米軍に対し、本土決戦準備を進めていくことになりました。米軍は、徹底抗戦の日本軍に対し、日本本土へ上陸することで戦争を終わらせようとします。その作戦の1つが九州南部に上陸する「オリンピック作戦」でした。この作戦では、1945年11月1日に志布志湾の制圧が計画されていたと言われています。
この作戦の目的は、九州南部の孤立化、所在兵力の撃滅、関東上陸の為に必要な航空・海上基地を作るための地域の占領でした。
上陸作戦への準備を急ピッチで進める必要があったため、当時、志布志には2000人を超える兵士が集結したと言われています。
無人島である枇榔島の軍事化や野井倉飛行場の整備など各所で学生なども動員され準備が進められますが、野井倉飛行場は1945年3月に完成することなく米軍の攻撃を受け破壊されています。
野井倉飛行場は、現在の尚志館高等学校近くから北西方向へ延びており、安楽校区の平床公民館のところに通信壕が設置されました。

■いよいよ九州南部が標的に
1945年6月、沖縄を占領した米軍はオリンピック作戦に向け、本格的に動き始め、8月5日には志布志駅周辺が空襲を受けた記録があります。
また、翌6日には伊﨑田や新橋、泰野、尾野見が空襲を受け、数多くの被害が出ています。
このように、空襲に見舞われた南九州で過ごし、その時体験した恐怖、二度と戦争を起こしてはならないとの思いから、志布志市内で戦争を語り継ぐ活動をされている方々がいます。
次のページでは、その活動について紹介します。

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