■焼酎文化黎明期(れいめい)期と指宿
~アルバレスと利右衛門~
鹿児島の特産品である焼酎は、近年、独自の風土が生んだ文化遺産としても注目されています。そして、焼酎に関する最古の記録の舞台は山川港なのです。
時は戦国時代の1546年、国際貿易港として栄えていた山川港をポルトガル人の商人兼船長ジョルジェ・アルバレスが訪れます。彼は友人である宣教師フランシスコ・ザビエルからの依頼で山川に約半年間滞在し、見聞と体験をまとめた『日本報告』を執筆しました。これには「彼らは米から作るオラーカ(蒸留酒)を飲む」「そこで私は正体を失った酔っぱらいを1人も見なかった。それは、彼らが酔うと気付くとすぐ横になり寝てしまうからである」「この土地には多くの居酒屋がある」と記されています。16世紀半ばには米焼酎が日常的に飲まれていたことを示す資料です。
ただし、当時サツマイモはまだ日本に伝来していないため、もちろん芋焼酎はありません。芋焼酎が造られるようになったのは18世紀のことですが、そのきっかけの一つが宝暦2年(1705)、南島航路の船員であった岡児ヶ水出身の利右衛門が、サツマイモを琉球から鉢に植えて持ち帰り栽培したことです。利右衛門は1軒1軒回ってイモを植えたと伝えられます。火山灰土壌でも育つサツマイモは大切な食糧として多くの人々を飢饉(ききん)から救いました。利右衛門の墓は岡児ヶ水にあります。傍らには利右衛門の船主の家であったと伝えられる山川の豪商河野覚兵衛(こうのかくべえ)と佐々木廣謙(ささきひろかね)が弘化3年(1846)に建立した甘薯翁(かんしょおう)顕彰碑があり、利右衛門の偉業を後世に伝えています。明治30年にはその功績をたたえて徳光神社が建立され、利右衛門は「玉蔓大御食持命(たまかづらおおみけもちのみこと)」として祭られています。日本へのサツマイモの伝来については諸説ありますが、民間人が持ち帰り実際に栽培したことにおいて、利右衛門の右に出る人はいないでしょう。なお、芋焼酎の製造法に関する最古の記録は、利右衛門によるサツマイモ伝来から90年後のものです。
このように、海外からの文物が流入する山川港を有する指宿は、焼酎の歴史の黎明期に深く関わっていた地と言えるのです。
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